「新年」はなぜ歳時記の一章なのか?
国や文化によって風習や考え方が違うことは、一般論としてはわかっていても、実際にそれを実感すると戸惑うことが多い。
例えば、日本語。日本語には、漢字、ひらがな、カタカナという三種類の文字があります、とイギリス人に説明すると、怪訝そうな顔をされる。例えば、「村上」は「むらかみ」「ムラカミ」とも書けます、と書いて説明すると、なんとなく理解はしてくれる。「でも、どうしてそんな三種類の文字を使い分ける必要があるの?」 その理由は僕も充分には説明できない。
俳句も謎めいている。例えば、歳時記。考えてみると、ある特定の「詩」のジャンルにそれ専用の「辞書」があり、初心者から大家まで何百万人という規模でそれが遍く使われているという例は、外国の他の文学ジャンルでは見当たらないだろう。歳時記には、季語の解説と例句が掲載されています、と説明すると理解はしてもらえる。だが、その後に質問される。「そもそも歳時記は何のためにあるの? 俳句にとっての<美の規範>を示すため?」 その答えはイエスなのかノーなのか。
日常生活でも相違点は多い。英国で最も重要とされる大聖堂があるカンタベリーという町があり、年始に初詣代わりに旅行することにした。しかし、イギリス人にそんな計画を話すと、「どうしてそこに?」と不思議そうな顔をする。なので、日本ではみんな新年に寺社に行って一年の幸せを祈るんです、と説明する。「あら、それはいい習慣ね。なに、家の中に祭壇があるの?」「いや、そうじゃなくて町の大きな寺や神社に行って……」とまったく話が噛み合わない。そして実際に訪れた元日のカンタベリー大聖堂も、やや閑散としていた。ちなみに、英国の多くの会社や役所では、元日は休みでも一月二日には業務が始まる。日本のような初詣やお正月という概念はほぼないみたいだ。
その「新年」は、実は歳時記の特別な一章になっている。イギリス人的な感覚からは、それも「なぜ?」の対象だろう。Haikuは、四つの季節の自然を受け止めて成立する詩です、みたいな説明をこれまでイギリス人たちにしてきたが、けっこうそれは嘘だと気づく。そもそも歳時記にある季節(章)は、四つではなく五つ。さらに言えば、例えば「淑気」という季語があるが、それは自然現象でもない。もしそうなら、新暦後もそれは旧正月の時期に留まっていたはずだ。
つまり、新年という季節は自然現象というよりも暦に対する人間の意識が生み出す半ば人為的な時空であり、それは日本の文化・価値観に深く根づいている。その「新年」に歳時記は四季にも並ぶ特別な一章を割いてきたわけで、そこには俳句文化を理解するための大きな鍵が潜んでいそうだ。
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2020年9月25日金曜日
【連載】英国Haiku便り(14) 小野裕三
(『海原』2020年4月号より転載)
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