ふけとしこさんに初めてお会いしたのは何時だったか・・・思い出してみると、筆者が所属する椋俳句会の吟行旅行の折だったと記憶している。
既に関西俳壇の重鎮として名を成しておられたが、お会いしてみると大変気さくなお人柄で、常に周りには人が集まって朗らかな気分にさせてくれる正に“難波のおばちゃん”そのもの。しかし一旦吟行に移ると、植物に、昆虫に素晴らしい知識を持たれていて“歩く植物図鑑&昆虫図鑑”となる。愛情をもって接するふけさんのお姿に、小さな生命に対する慈しみを感じたものだった。<青蛙連れてどこまでふけとしこ>はそんな姿を拝見した折の筆者の即吟。
しかし、命を見つめるふけさんの確かな目は人間観察にも向けられており、人間の営為の機微に触れる秀吟を読者は拝見することになる。
では第五句集となる『眠たい羊』についていくつかの句を引いてみたい。
嘴の痕ある椿ひらきけり
細やかな観察が行き届いた句である。普通なら見事に開いた椿を詠みたいところを「嘴の痕」に着目して、植物と鳥との関わりに心を寄せている。どちらの生命も肯定してあるがままを詠む姿勢こそが写生の真髄だと知らされる一句。
脚を病む蟻かも知れず日の落つる
観察の眼は更に小さな蟻のうごめく姿にまで向けられる。脚を病むと推察することの背景にある、この小さな命に起こった只ならぬ出来事が一句の隠し味になっているではないか。落日が迫るということは命の儚さの象徴でもあるだろう。
鹿若し風踏んで四肢浮かせたる
まだ怖れを知らぬ若鹿の躍動感。見えぬ風を踏んで四肢が浮いているとは確かに実体験のない者にも分る景であり、生命の捉え方の妙が感じられる。そして「鹿若し」と突き放して詠むことにより、いずれ知るであろう生きることの大変さに作者の思いが込められている。
春の水とは子供の手待つてゐる
通常、「〇〇とは」という認識を示す句は高踏的になりやすいので、筆者などは極力避けるのだが、「子供の手待つている」には逆転の発想が見事に決まって子供らの活動的な姿が春の水に映しだされている錯覚に陥る。春の水の象徴性が嫌味なく表現されるところに作者のポジティヴな立ち位置が見えてくる。
早引けに連れのできたる花石榴
体調不良か、それとも家庭の事情か、早引けという行為はどこか後ろめたいもの。
それに連れができたというのは背徳感を少しだけ分け合った気分だろうか。石榴の花の朱色が気持ちを少しだけ軽くしてくれたのかもしれない。
蟻地獄暴いてよりを気の合うて
蟻を善き労働者に例えるとすると、その天敵蟻地獄という“悪の奈落”を暴くことを正当化しつつも、作者とその連れは小さな生命の営みを崩すという行為において共犯者となったのだ。この句も微かな背徳感の共有かもしれぬと筆者は読んだのだが。
冬深し生きる限りを皿汚し
食物連鎖の頂点にあるホモサピエンスは、生きている限りにおいて他の生物の命の収奪を免れない。「皿汚し」とは正に命を頂いた結果に他ならず、ヒトはそれを恥じつつ、感謝しつつ生きるしかないのだと作者は言っているのだ。その深い感慨が感じられる秀句である。
生きる限り人間は何かを汚し続ける。その背徳感の裏返しが小さき生命への関心であり哀れみ、慈しみとなって、ふけとしこという俳句作家を贖罪としての作句に駆り立てるのではないだろうか。そのひとつの結実が『眠たい羊』であるのだと思う。
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