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2019年2月8日金曜日

【佐藤りえ句集『景色』を読みたい】3 ないものが見えたりする  嶋田さくらこ

 わたしはどの本に出会っても、必ず後ろから読む。「後ろ」は「あとがき」だったり、「解説」だったりする。佐藤りえさんの句集『景色』も例に漏れず「あとがき」から読んだ。そしてびっくりした。この句集には2003年以降の作品が納められていると書いてある。わたしにとって佐藤りえさんは「歌人」だったのに、いつのまに俳句を?!という気持ち…調べたらりえさんの歌集『フラジャイル』は2003年に刊行されている。りえさんは歌集を出した後俳句に心変わりしちゃったのか…なんて思って次のページをめくると、作者紹介のところには十代から独学で俳句を始められたとか…じゃあ短歌が後からだったんだ!とまた驚いて、やっとりえさんの句を読む準備が整った。俳句の読み方も何もあったもんじゃないんだけど、好きな句をあげて何か言いたい。

  かぎろひに拾ふ人魚の瓦版  「犬を渡す」
  溶けてきて飲み物となるくらげかな  「七人の妹たちへ」
  バスに乗るイソギンチャクのよい睡り  「バスに乗る」

 夜明けは海の底にいるみたいに感じるし、ガラスのコップの中の液体はふいにとろんとして漂いはじめ、バスの揺れはゆったりとした海流のように心地いい…もしかするとりえさんは海の生き物の生まれ変わりなんじゃないか。だから、日常の中に突然こういう感じが見えてしまう。

  踵から脳を漏らしてひるさがり  「バスに乗る」

 これはね、これはすごいものが見えてる…脳が足元から漏れてくるなんて…たいへん!!でもこののんびりした感じ。「あ、漏れてるわ―」ってじーっと地面を見ている。
 わたしは短歌をよく作るので俳句を読むとどうしても短歌と比べてしまうんだけど、極端に言うと、短歌は妄想、俳句は錯覚、短歌には思う長さがあり、俳句には感じる短さしかない。「感じる」という瞬発力が重要で、その時その一瞬でりえさんが確かに「見えた」ものを言語化する時、その景色が現実から遠ざかっていようと読者にはそこにある真実として届けられる。

 食べ物が出てくる句に好きなものが多かった。

 コッペパンになづむ一日や春の雪  「地球惑星」
 アイシングクッキー天竺までの地図  「地球惑星」
 ミルクティーミルクプリンに混ぜて夏  「怪雨」
 ひとりだけ餅食べてゐるクリスマス  「雲を飼ふやうに」
 洗はれるチーズの気持ちになつてみる  「団栗交換日記」
 エクレアをよつてたかつて割る話  「麝香」

 食べ物をどう扱うかって、その人の美学やかわいさがすごくよく出ると思っていて、りえさんにかかると、あの茶色いずんぐりむっくりのコッペパンはこんなにも美しく輝く食べ物になってしまう。「天竺」ってあれですよ、孫悟空が三蔵法師と目指すユートピアですよ。アイシングクッキーに地図が!?そうそう、お餅好きはケーキよりお餅。ひとりでもお餅。みんなケーキを食べている世界にいて、ひとりだけ餅を食べる自分。おのれを貫くということはこういうことだ。

 句集の最後の連作の、

 愛情に圏外あつて花筏  「ハッピー・エヴァー・アフター」
 その後の幸福という花疲れ  「ハッピー・エヴァー・アフター」

 この二句を読んで、りえさんの歌集『フラジャイル』の有名な短歌を思い出した。

 キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる  『フラジャイル』

『フラジャイル』の刊行から15年たって、「キラキラに撃たれ」た後の物語を思う。「愛情に圏外」があると知るまでの、その時間の流れを思う。「幸福」が永遠でないことを、人は学んでいく。

 俳句と短歌は作るのに使う筋肉が違う、ってうまいこと言っていた人がいたけれど、りえさんは二つの筋肉をこんなにも使いこなしておられる。実はわたしも短歌を始めたころに同時に俳句も作っていた。でも全然うまくいかなくてやめてしまった。りえさんの短歌が好きだったので、第二歌集が読める方がうれしいと思っていたのに、『景色』を読み終えるとそんな気持ちは一切なくなった。この句集が読めて本当にうれしい。
 わたしにとって、りえさんのもう一つの顔は、とても小さくて美しい本や小箱を作る作家さん。そして異様に紙に詳しい。この句集の装幀もきっとマニアックに凝っているに違いない。詳しいのはお仕事の関係なのかな?と推測したりしているんだけど、本当のところはいつかご本人にゆっくりお話を聞いてみたい。

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