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2019年2月8日金曜日
寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑤ のどか
Ⅲシベリア抑留語り部の体験談(2)
(6)極寒
中島さんの体験では、マイナス40~45度になると、水分のあるものはみ
な凍り、呼吸による水分で眉毛や口髭が凍り、さらに寒くなると顎が凍って話ができなくなる。
素手で金属に触ると瞬間接着剤のようにとれなくなり、無理に剥すと皮膚が剥がれてしまうので、火で温めてゆっくり剥さなければならなかった。
「戦争体験放映保存の会」主催の“戦争体験者と出会える茶話会”の中島さんのパネル資料「7」より補足する。
マイナス40度までは、作業に駆り出された。焚火をしても冷たい空気を吸い上げるだけでなかなか暖かくならない。帽子のひさしから氷柱が下がり、口を覆った手拭いや眉毛や髭面には、氷が張って顔が真っ白になり、栄養失調で明日をも知れぬ体は、今にも根気が尽きそうで、「頑張れ。日本に帰るまでは」
抑留生活を悩ませたことの一つに、冬の便所があった。便所は、穴を掘ってその上に板を二本渡したものである。冬には尿はすぐに凍り、氷柱となり危険なので、身体検査で三級になった者が、足掛けの板を全部剥し、十字鍬とシャベルで掘り返し外にモッコで捨てに行く。氷の破片が服に飛び散り、後で溶けると猛烈に臭った。
(7)食事と飢え
シベリア抑留の三重苦は、「極寒」・「飢え」・「重労働」であると言われる。
『シベリア抑留‐スターリン独裁下「収容所群島」の実像』富田武著の「劣悪な食事と食料対策」P.112∼113によると、
ソ連の食料事情は、大戦による破壊、1946-47年冬の欧州部を中心とする飢饉のために非常に悪く、配給制が大戦時から1947年まで継続していた。捕虜に対する給食は、捕虜受け入れ態勢未整理のため、将兵が携行した食料、戦利品として満州から搬入した食料に頼らざるを得なかった。
「日本人捕虜に対する食料給付基準」(1945年9月)によれば、一級(重労働向き)にランクされる捕虜は、一日にパン300グラム、米300グラム、肉50グラム、魚100グラム、野菜600グラム、味噌30グラムと定められた。(略)しかし、米や味噌は将兵が携行した食料と戦利品として満州から搬入した食料にしかなく、短時間で消費され、大多数の捕虜は、その後、味噌はむろん米を口にすることはなかった。(『シベリア抑留‐スターリン独裁下「収容所群島」の実像』富田武著 中公新書 2016年12月25日)
中島さんの体験では1日に、一個当たり3キログラムの黒パンを20人で分配するので、一人当たり150グラム(はがきの縦半分)と飯盒の蓋八分目の塩スープで、まだ熟さない青く小さなトマトが入っていたという。
筆者が計量した6枚切り食パン一枚は、約65グラム。黒パンとは質量が違うが、重さは現代の6枚切り食パンで2枚強に相当する。
食事の配給量について、『シベリア抑留‐未完の悲劇』栗原俊雄著の抑留者の食事についてP.48~49を参照してみる。
1945年初冬。軽野相之助(かるのあいのすけ)(1925年生まれ・京都市)は、極東ロシア、コムソモリスク・ナ・アレーム(以下「コムソモリスク」)の造船所で働かされていた。零下30度もの寒さである。本来なら体の内部でエネルギーを燃やさなければならない。しかし収容所で1日に支給されるのは、こぶしより小さい黒パン一個と、のぞき込んだ目玉が映るほど薄いスープのみ。カエルをつかまえ、ドックに浮かぶ死んだ魚をすくって食べた。残飯をあさっていた猫をつかまえて食べたこともある。
(『シベリア抑留‐未完の悲劇』栗原俊雄著 岩波新書 2016年2月5日)
食料は、ノルマによる労働の階級で分けられるグループが多い中、中島さんのグループでは、炊事場から受け取った黒パンを人数分に切り分ける。正確に切ったつもりでも多少の大小が喧嘩のもとになる。分配係は、宿舎全員の監視の中、欠片やパン屑を乗せて調整し、全員が後ろを向いて、指名された者の指定したパンを始めとして、順番に平等に分けられた。
中島さんは、厳冬期にはもっぱら松の皮のガサガサを剥いで、中の芯と皮の間の薄皮を、夏は雑草を煮て食べる。特に茸の生える時期には、毒茸の知識はないが構わず何でも煮て食べた。
昭和21年の1月頃から死者が毎日のように出るようになった。中島さんの隣に座り飯盒を抱え食事をしていた仲間が、突然声もなく動きを止めた。声をかけたが返事がなく肩に手をかけ揺さぶると倒れた。死因は栄養失調。同じ物を食い同じ仕事をしていたという。
(8)身体検査と労働等級
中島さんの「我が青春の軌跡 絵画集」によると、
身体検査 2、3か月に一度、ラーゲリ内の医務室においてソ連軍医が行った。(女軍医)尻の肉を握りこぶしの人差し指と中指で摘み引っ張りひねる。健常者は離すと直ぐに戻り平らになるが、栄養失調者はなかなか戻らない。戻り具合で1級から全く戻らない6級まで等級をつけ,1~2級は重労働、3級は野外軽作業、4級はオカと言いラーゲリ内の軽作業、5~6級は病人として病院へ送られる。
『我が青春の軌跡 絵画集』中島裕著(戦場体験放映保存の会収蔵)
中島さんは、検査の度に2級~4級のオカ間を繰り返したので、伐採・自動車積載・医務室勤務・衛兵宿舎当番・軽便鉄道の資材運搬・煉瓦工場・コルホーズの事務・便所当番・死者の埋葬等を体験したという。
参考文献
『我が青春の軌跡 絵画集』“陸軍航空兵科特別幹部候補生第1期生のシベリア抑留記”中島裕著(戦場体験放映保存の会収蔵)
※この本は、中島裕さんの手作りの本で、1冊は中島さんご本人が持ち、1冊は戦場体験放映保存の会収蔵である。
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