【2016年、長めのいい部屋】
前回から長々と作品のタイトルとは何かをめぐってここまできましたが、それじゃあ近年の短歌界における歌集タイトルの変節はどうなっているのでしょうか。
たとえばもっともそれが顕著にあらわれている事例として木下龍也さんと瀬戸夏子さんがあげられるんじゃないかと思うんです。
木下龍也さんは『
つむじ風、ここにあります』(二〇一三年)、『
きみを嫌いな奴はクズだよ』(二〇一六年)を歌集として刊行しており、瀬戸夏子さんは『
そのなかに心臓をつくって住みなさい』(二〇一二年)を刊行しています。どちらも先述したタイトルのように名詞化しない〈長い〉タイトルであり、〈口語体〉です(ちなみに瀬戸さんは最近『
かわいい海とかわいくない海 end.』も刊行されました)。
近代短歌の歌集においてはこれまでこんなに〈長い〉タイトルはなかったように思います。その意味においては、ニューウェーブの加藤治郎さんも穂村弘さんも近代短歌歌集タイトルの枠組みを汲み取っていたと言うことができます。
石川啄木の歌集タイトルが『一握の砂』『悲しき玩具』だったように、加藤治郎さんの歌集タイトルは『
サニー・サイド・アップ』(一九八八年)であり、穂村弘さんの歌集タイトルは『
シンジケート』(一九九〇年)でした。
タイトルの側面から通時的にいえば、そこには近代からの伝統的なタイトルの枠組みが共有されています。〈まみ〉という女性主体に託してフィクションとは何かを突き詰めた穂村弘さんの歌集『
手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』(二〇〇一年)でさえ、やはり名詞=体言に回収しうる近代歌集的な枠組みを引き継いだものです。その意味ではこの歌集は〈近代短歌歌集〉のセオリーを引き継いだものでもあると言えるかもしれません。
でも『
きみを嫌いな奴はクズだよ』の木下龍也さんや『
そのなかに心臓をつくって住みなさい』の瀬戸夏子さんは違います。かれらの歌集タイトルにおいては、近代的な歌集タイトルの枠組みは明らかに切れています。タイトルは文=センテンスと化しており、述部も決定されています。読者はあらかじめその〈述部〉の価値観、「クズ」「住みなさい」を読者として〈受け入れる〉こととなります。あえて大きく言えば、ここに近代短歌的なタイトルの枠組みは切断され、現代短歌のタイトルの枠組みがはっきりと始まったように思うのです。
このような歌集タイトルのベクトルは、二人が志向している作風と関係があるように思います。山田航さんは自身の編んだ〈現代短歌〉のアンソロジーにおいて、木下龍也さん・瀬戸夏子さんを次のように解説しています。
だがその作風も、「個」よりも「場」を重視し、作者のオリジナリティとか「内面」なんてものをはなから信じない、ポストモダン的な態度としてごく自然なものだ。……
……「私は記号的な存在である」「いくらでも替わりのいる存在である」。そんな自己認識にまず立ってから歌を詠まなくてはいけない「私」の叫びが今、ポスト現代短歌を切り開こうとしている。
(山田航「木下龍也 どんなにあがいてもエキストラ」『桜前線開架宣言』左右社、二〇一五年)
瀬戸は、近代以降の短歌が一貫してアイデンティティとしてきた「自我」を疑う。だから「連作」や「作者」、「〈私〉性」といった近代的概念を解体しようとする。
(山田航「瀬戸夏子 痴呆のように同姓同名」前掲)
木下龍也さんの「ポストモダン的な態度」、瀬戸夏子さんの「近代的概念を解体」といった山田さんの解説を読んでわかるように、二人に共通するのは〈近代の大きな否定〉です。〈近代の大きな否定〉とは簡単に言えば、その〈作品〉の〈内面〉を掘り下げるような〈読み方〉を提示することを否定するということです。そうではなくて、言葉の言葉性をどれだけ外部とアクセスさせながら、〈私〉や〈自我〉に回収されない〈言葉のありかた〉を問い続けられるか。そこに比重が置かれているようにおもうんです。
そしてだからこそ歌集に近代的な歌集タイトルをつけるようなことをしなかったんじゃないかと思うのです。近代的な読解によって世界観を〈誤読〉されることを〈そもそも〉拒んだ。近代的な読まれ方の拒絶として主述構造をもったセンテンスとしてのタイトルがあるのではないかと。
【名詞の耐用期限はどれくらい長い?】
じゃあなぜ二〇一〇年代に入ってこのような長いタイトルがジャンルをまたがって見られるようになったのでしょう。
穂村弘さんは『
短歌の友人』において二〇〇〇年代以後の短歌の状況を次のように指摘していました。
二〇〇〇年代に入って、戦後の夢に根ざした言葉の耐用期限がいよいよ本格的に切れつつあるのを感じる。インターネットに代表されるメディアの変化とも関連して、修辞的な資産の放棄に近い印象の「棒立ちの歌」が量産される一方で、未来への期待と過去への郷愁をともに封じられた世代が「今」への違和感を煮詰めたところから立ち上げた作品が目につくようになった。
(穂村弘『短歌の友人』河出書房新社、二〇〇七年)
穂村さんは「棒立ちの歌」が多くなっている状況にふれて「言葉の耐用期限」が切れたのではないかという指摘をしていますがそれは二〇一〇年代に入って「名詞の耐用期限切れ」にもっと突き詰められたかたちで変化してきているのではないかとも思うのです。この〈名詞の耐用期限切れ〉についてはたとえば〈歌人名〉から考えてみてもいいように思います。アメリカ文学者の波戸岡景太さんは『
ラノベの中の現代日本』において次のような指摘をしています。
一九七二年生まれの歌人である斉藤斎藤は、その筆名そのものに、すでに彼のアイデンティティの揺らぎをうかがわせている。これは、『ぼっちーズ』の入間人間(いるまひとま)や、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の渡航(わたりわたる)、そして、『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』の裕時悠示(ゆうじゆうじ)などの、ラノベ作家たちのネーミングセンスとも共通するものだろう。
(波戸岡景太『ラノベの中の現代日本』講談社、二〇一三年)
「斉藤斎藤」という〈近代〉にはありえなかった反復され差異化される名前。それはもはや名詞が〈単一〉で価値観をもてなくなってしまったことの象徴でもあると思うのです。「斎藤(茂吉)」に代表される活用されえない近代の名詞体言が、「斉藤斎藤」と用言のように〈活用〉されてしまう〈名詞の風景〉。それが〈名詞の耐用期限切れ〉と通底しているのではないかと。
たとえばそうした〈名詞の耐用期限切れ〉は木下龍也さんの歌集の短歌から具体的にみてとることもできます。木下さんの短歌において名詞が分離する歌が多くみられるのです。
サラ・ジェシカ・パーカーさんが三叉路でサラとジェシカとパーカーになる 木下龍也
二階堂ふみと四階堂ふみふみと六階堂ふみふみふみ 〃
わたくしは零時の鐘で赤式部・青式部に分かれてしまうの 〃
後藤氏が壁にGOTOと書いた日の翌朝ぼくが付け足すHEAVEN 〃
どの歌も〈単一〉の名詞が不動の〈単一性〉を奪われ、名詞が用言のように活用される〈複数性〉としての名詞の風景を描いています。まるで「斉藤斎藤」さんの名前の〈風景〉のように。
一見〈名詞〉を用いた言葉の遊戯性を描いた歌にもみえますが、これらの短歌を〈名詞の耐用期限切れ〉、名詞が体言として統括されてある力を失効したことのあらわれとみることもできるのではないでしょうか。名詞の効力を失った歌として。
これは瀬戸夏子さんの短歌にも同時に言えることです。瀬戸夏子さんの短歌を評して山田航さんは「瀬戸の実験作はぼくだって完全には理解できていない」と述べられていましたが、瀬戸夏子さんの短歌の理解しがたさは〈名詞〉の把握しがたさにあるのではないかと思うんです。
動物園も病院もそっくりだったしくるくると人は臍からきれいに剥けます 瀬戸夏子
たとえばこの短歌の解釈しがたさは、「動物園」も「病院」も「臍」もほとんどその名詞的内実を持っていない点にあります。
これらを辞義的に、名詞の意味を忠実にたどりながらこの歌を解釈してもほとんどこの歌は解釈できません。むしろこの歌は名詞の耐用期限が切れ、まったく名詞が成り立たなくなってしまった歌として、そこから読むべきではないかとおもうんです。
瀬戸夏子さんの歌集『
そのなかに心臓をつくって住みなさい』は『
そのなかに《意味》をつくって住みなさい』でもあるのです。名詞さえもそこでは意味を保証してくれない。みずからが無理矢理にでも意味の心臓をつくるしかない。でもそのことが《妥当》かどうかは自己言及的に吟味する必要がある。短歌を読むとはどういうことなのかを。そのように〈読み〉や〈意味の補充〉のシステムそのものを問いかけてくる歌でもある。
あだ名っていう おなじ人っていうレモンが怒ると 鍵の入った鞄 瀬戸夏子
観覧車の肉を切りわけゆうやけにきみは吊られた眉毛のかたほう 〃
微笑む次に微笑む電車すでに熱く、せめてリンスは食べる? 〃
これらの歌においても名詞の内実を解釈することが歌の解釈には決してつながってはいきません。むしろ名詞の内実を放棄したところから、いやそもそも〈解釈〉とはなんであったかを問い返すことからこの歌との取り組みははじまるとおもうんです。
瀬戸さんの歌集において興味深い連作があります。連作「The Anatomy of, of Denny's in Denny's」というのがあるんですが、瀬戸さん自身の短歌と早坂類さん、穂村弘さん、我妻俊樹さんなどの短歌を混ぜて配置しつつ、歌人名が誰かわからないように並べて連作をつくっているんです。これはそもそも瀬戸さんの短歌の世界においては、短歌における〈署名〉としての名詞が効力を持たなくなっていることのあらわれであるとも思います。〈作者名〉と〈短歌〉の意味性がセットでなくなっているのです。
【センテンス化するタイトル、つまり長くなる】
ここまで〈名詞〉の効力が失われたことについて述べてきました。それは〈名詞=体言〉の力の失効であり、センテンス化するタイトルとも通底していると。
タイトルがセンテンス化するとは、そもそも〈解釈の欲望〉を閉じることです。ひとは名詞へさまざまな意味を盛り込み、解釈=センテンス=「AはB」であるをつくろうとするのだから、そもそもがタイトルがひとつの〈解釈〉である文は、そうした読み手の欲望を読み手自身へと送り返すものであると言えます。でもそれは現代の想像力をめぐる文脈と共振したありかたでもあるようにもおもいます。
現代サブカルチャーを論じる評論家の宇野常寛さんは二〇一〇年代の想像力の変化を次のように指摘しています。
現代におけるインターネットは拡張現実「的」なのだと思います。ここで言う拡張現実的なものとは現実と虚構の現在、現実の一部が虚構化することで拡張することです。それは言い換えれば日常と非日常の混在でもある。ソーシャルメディアの普及以降、バーチャルな空間に閉じた人間関係をインターネットに探すほうが難しい。インターネットは現実のコミュニケーションを「拡張」する方向にしか作用していない。…同じことが…物語的想像力のトレンドの推移にも言えると思うんですね。…つまり〈ここではない、どこか〉を仮構するのではなく〈いま、ここ〉を多重化する方向へと虚構に求める欲望が変化している。この変化は「仮想現実から拡張現実へ」の変化にも対応している。
(宇野常寛『希望論』NHK出版、二〇一二年)
現代は、〈ここではない、どこか〉を求める想像力ではなく、〈いま、ここ〉を多重化する想像力に推移していると言うのです。
それは〈名詞=体言〉の力によって〈解釈〉をさまざまに〈ここではない、どこか〉へと拡散させることではなく、〈解釈〉そのものを再吟味させることによって〈いま、ここ〉という〈単一〉の場所に読者をとどまらせながらも、〈いま、ここ〉にとどまった読者を重ねていく作法とも通底しているのではないでしょうか。
〈3・11〉以降、わたしたちはもはや〈ここではない、どこか〉などという場所がリアリティをもってありえないことを知っています。〈いま、ここ〉をひきうけて生き抜くことしかないことを。そのとき〈名詞〉へ解釈を呼び込むことではなく、文=センテンスで態度決定をし、そのなかに読者を重ねていくこと。それが歌集タイトルの変貌としてあらわれているのではないかと思うのです。
【少し長い反省】
もう終わるのですが、少しふりかえって反省してみたいと思います。二〇一〇年代までにも例外として〈名詞=体言〉に回収できない歌集タイトルはもちろんあります。たとえば岡井隆さんの『
土地よ、痛みを負え』(1961年)や佐佐木幸綱さんの『
直立せよ一行の詩』(1972年)、河野裕子さんの『
森のやうに獣のやうに』(1972年)といった歌集です。そういったイレギュラーな歌集タイトルをどう考えるのかという問題があると思います。
またもうひとつはジャンル間の相互浸透をどうとらえるかという問題もあります。たとえば現代俳句には、御中虫さんの『
おまへの倫理崩すためなら何度(なんぼ)でも車椅子奪ふぜ』(2011年)や現代川柳には佐藤みさ子さんの『
呼びにゆく』(2007年)という句集タイトルが存在するし、そもそも詩の領域にいたってはさまざまな詩集に〈ごくふつう〉に長いタイトルが見られます。たとえば、谷川俊太郎『
夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(1975年)など。
また見落としてはならないのは文学領域ではなく文化の領域、ジャパニーズ・ポップスの領域です。DREAMS COME TRUEの「決戦は金曜日」など歌のタイトルはほとんどが長く主述構造の文スタイルになっています。たとえば「水中、それは苦しい」というバンド名もあります。短歌において、もし作者名が、「水中、それは苦しい」だったり「柳本は苦しい」だったら、歌の意味作用にどのような影響を及ぼすのか。いろいろ考えさせられます。
またJポップの一方で、中島みゆきさんや演歌のタイトルは名詞=体言のタイトルが多いですよね。どうしてでしょうか。
こんなふうに〈名前〉から文化を考えてみると、いろいろな問題領域がまたがりながら、〈どっ〉と出てきます。
ちなみにわたしは曾祖父の筆名からこの「々々」をもらったのですが、さいきん歌人の岡野大嗣さんから、この「々」っていうのは無音なんですよ、と教えていただきました。
あ、そうだったのか、無音なのか、と思いました。だとしたら、わたしは柳本無音なのかもしれないな、と。
長くなりそうなので、終わります。