(「新しい詩学の始まり」は「俳句WEP」89号より連載、「新しい詩学の始まり」(89号)、「金子兜太と栗山理一」(90~92号)と連載中。)
(前略)もともと芭蕉の「情の誠」は限りなく沈潜して行く孤独ではなかったのか。それは先に兜太が、芭蕉の奥処に定家の「有心」のよって立つ抽象を発見したように、冷え冷えとした心であった。そう考える方が自然だ。しかし兜太は芭蕉に学問的な価値を期待しているのではない。作家としての原理を探求している。それは造型俳句論もそうであった。そしてここでも、芭蕉の名によって新しい行動原理を示そうとしている。交わりに向うふたりごころ(情)・閉じて行くひとりごころ(心)は栗山の解釈では出てこない概念であった。
造型俳句論以後、兜太は「総合」の道を歩かねばならない。造型俳句論が現代における高峰であるとすれば、その周辺の連山を含めた山脈を展望することが必要だ(実はこの連山の中には虚子までを含めてよいのだが、それを積極的に進めたのは阿部完市であった。ここではその詳細までは含めない。『戦後俳句の探求』参照)。そこに情(ふたりごころ)が機能し始める。
いささか漠然としたいい方になってしまったが、それは兜太が、以後、造型俳句論のような緻密な方法はとらず、エッセイや評伝等の形でその総合の道を示しているからだ。『種田山頭火』(昭和四九年)『ある庶民考』(昭和五二年)『小林一茶』(昭和五五年)などにより、道筋を確認している。従って、『流れゆくものの俳諧』は、別章仕立てで辛うじて理論的な主張を整える。
むしろ、「ふたりごころ」と「ひとりごころ」は作品の原理としてこそ重要なのだ。第八句集『遊牧集』(昭和五六年刊)の後序で兜太は次のように述べるが、これこそ兜太の「総合」の道筋をたどる不可欠な発言なのである。
(中略)
このパラグラフ(『流れゆくものの俳諧』)では、芭蕉のあり方こそ理想的と語っているようだが、なお、兜太は一茶の立場を、このような違いが出てきたことの中に、庶民の近代とでも言うべきもののあらわれを見る。近世庶民が、ようやく独立した個体として自我を自覚しつつある風景が、そこにはあると考える、と述べ、造型俳句論で主張した「自我」や「個体」を経て芭蕉にはなかった一茶の自立が始まると考えるのである。
それは、後に「情(ふたりごころ)――芭蕉と一茶」(平成九年七月講演)の中で一層はっきりする。「芭蕉は、心(ひとりごころ)を攻めに攻めた立派な男だが、そして、情(ふたりごころ)が最後だと思ったのに、ふたりごころは遂に得られない、相手とじかに触れあい、相手をじかに見て、見えないものまでを見とどけるという、情(ふたりごころ)の世界というのは分かったけれど、じっさいは作品の上で実行できなかった」。一方一茶は――長文となるので私の言葉で言いかえれば――、エゴを突っ張り、凡愚に生きていった。にもかかわらずそこに表れる俳句は情(ふたりごころ)にあふれたものとなる。芭蕉が腰を抜かすような俳句、芭蕉が一茶より後の人だったら、一茶の句を読んだら絶望して自殺したいと思うような句を詠むのである、と言う。
こうして兜太は、俳諧史を芭蕉から一茶へ転換する。そしてこれは、「栗山の俳諧史」から「兜太の俳諧史」への転換でもあったのだ。それは、客観的・学問的な俳諧の歴史としてではなく、宗因から芭蕉・蕪村・一茶・子規・虚子・兜太を経て貫かれる現実・肉体の俳句史でもあり、実践としての俳句を語るためでもあったのである。
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