びーぐる31号俳句時評(平成28年4月20日発売)より転載
私の属する俳句結社「鷹」主宰・小川軽舟の句集『掌をかざす』が出た。一年間、ふらんす堂ホームページ上に毎日連載された俳句日記をまとめたものだ。日記風短文と一句が三百六十五日分収められている。帯には軽舟主宰の後書。「俳句とはささやかな日常を詩にすることができる文芸である。」
一通り読んで、溜息をつく。句の良し悪しの判断がつかない。日記風短文が妨げになるのだ。その短文が徹頭徹尾、幸福な市民の目線で記されているせいもある。高度成長期の良き時代に育ち、故郷の父に孝行し、妻子と和合し、堅実な勤め人であり、観劇や旅行を楽しみ、穏やかな文化人である諸々の感慨。
関悦史に聞いてみた。
「『掌をかざす』はどうだった?」
「あれは軽舟さんの今までの句集よりも、肩の力が抜けてる感じで、良かった」
「あの短文が辛い。幸福な市民の目線だ」
それは君の僻みだろう、と言うには関悦史は優し過ぎる。代わりに彼はこう言う。
「軽舟さんといえども、不幸が無い筈はないよ。不幸は公にしないという主義なのかも」
成程。小泉八雲云う処の「日本人の微笑」を思い出す。明治時代、夫が死んだ事を嬉し気に微笑んで報告する日本人女性を見て、外国人が驚きと不快を示す。小泉八雲は言う。己が悲しみは示さない、それが日本人の美徳なのだが、外国人にはそれが解らない、と。
句だけから受ける印象は、中村汀女の句に見られるような精確さがある。作者は男性だから、当然、汀女のような母性の柔らかな広がりは無いが、代わりに或る「固体性」とでもいうべき確かな触感がある。短文が妨げとなるのは、あらゆる俳句日記の宿命であろうし、元々そういう企画で連載されたのだから仕方ないが、俳句日記という理由で、「句集ではない」と片づけられてしまったり、佳句が見落とされるべきではない。自分なりに公平に評価するための方策を案じた挙句、遂に句だけを全部、縦書ノートに書き写した。これで私専用のテキストは出来た。次に挙げる評は、あくまでも句だけを観たものである。
野(くさ)猪(ゐなき)初霜に鼻擦りゆけり
猪は餌を嗅ぎ探しているのだろう。猪の古称をルビに振ったあたり、単なる猪ではないとの意図が感じられる。「くさゐなき」は語源のはっきりしない語らしい。古代、猪の鳴き声を「ヰ」と称した処を見ると、「草に居てヰと鳴くモノ」の意か。今昔物語には、猪は「くさゐなぎ」と称され、人を化かすモノとして登場する。掲句の猪も「くさゐなき」と呼ぶ事により、化生の空気を纏ったモノ、人間を化かすだけの知性を持ったモノとして読む事が可能だ。そう読む時、餌を探す行為が、只の猪と読むよりも尚、哀愁を増す。
鉦叩三階にどう跳ね来しや
この鉦叩も中々ただの鉦叩ではない。三階までどう来たか、と訝しまれるだけの行動力を持っている。その跳躍は鉦叩自身にとって無益な、家の住人次第では鉦叩が害されかねない、真摯にして滑稽な努力なのだ。
爆竹を痛がる地べた春近し
颱風に看板吠ゆる廃市かなこの二句における「地べた」も「看板」も無情の物でありながら、共に有情の感情を与えられている。一句目は春節の頃の中華街を思わせ、二句目は福島の原発近くの町を思わせる。春節の賑やかさの中、地べたに注意する者はあまり居るまい。廃市の看板となれば、一層誰も振り返らぬだろう。化生としての猪、頑張り過ぎる鉦叩、痛覚を持つ地べた、声挙げる看板。その自我を示せば示すほど、作者の眼にはあわれと映るモノ達。
見る間にもこぼれて萩は花減らず
無情に見える有情の永遠性、或いは輪廻性とでも言おうか。確実に減っている筈の花を、減らず、と見る。減らぬのは、来年の或いは去年の花の情景が、平行世界(パラレルワールド)のように現在の萩に重なるからだろうか。作者の句集「手帖」中の「五分後の地球も青しあめんばう」は、バートランド・ラッセルの「世界五分前仮説(世界は実は五分前に始まったのかもしれないという仮説)」に拠るのかもしれぬ。この仮説に拠るなら、作者は水の惑星の創生期に、あめんぼうのように漂いつつ立ち会っていることになる。掲句の場合、作者は常に萩の咲く初めに立ち会っているのか。それなら花が減らないのも然り。
春炬燵めつちや嬉しとしがみつく
春装みな背中合せにパチンコ屋「めっちゃ嬉し」なる大阪弁の野放図さと「しがみつく」動作が内蔵する寂しさ。庶民の賭博である「パチンコ屋」と「みな背中合せ」に暗示される孤独。春ののんびりした季語により却って浮かび上がる、ささやかに何となく過ごしてゆく日常の仄かなあわれ。
水見舞流されし犬戻りしと
洪水被害を受けた家へ見舞いに行った処、その家の犬が戻ってきたと伝えられた。犬の骸をわざわざ届ける筈はないから、犬は生きて、恐らくは自力で戻ってきたのだ。洪水の後始末に追われる困惑の中、だが愛犬であるなら、我が子の生還に匹敵する喜びだろう。この犬の逞しさは、そのまま人間の生活の逞しさに繋がるだろうし、犬は家族として愛されるものだから、生還した犬を愛おしむ心は、生活への愛に繋がるのである。洪水という大虚無に抗して、家族ではあるが人間ではない犬が生還した、これは美しい滑稽さである。
雁瘡を掻き饅頭に手を伸ばし食べ物は美味しそうに詠え、と、これは鷹の先代主宰・藤田湘子の教えだが、掲句は敢えてその逆を行く。艶やかな饅頭に皮膚病の取り合わせは、とても美味しそうには見えない。片手は荒れた肌を掻き、片手は饅頭に伸ばされる。肉や魚に比べれば、饅頭は遙かに加工され整えられた食物であり、且つ通常は手摑みで食う物だ。右手と左手を通じて、肌の劣化である雁瘡と、見目良く整えられた食物である饅頭が、同一線上に並び且つ結ばれる。これはむごい句であろう。どんなに取り繕おうとも「食べるという行為」自体に、どうしようもなく含まれる穢れはあるものだ。
全財産スイスに肥やす褞袍かな
褞袍がふてぶてしい。国も企業も株式市場も最早信用できないので、スイス銀行に預ける。その財産さえもひとたびヨーロッパで大戦が起きれば、スイスに容赦なく没収される。「全」と付くから「スイスに肥やす」事もまた博打なのだ。ほんの十年前なら金持ちの嫌味を笑った句と読まれるだろう。EU崩壊の危機、テロの脅威、各国の民族主義の台頭が取沙汰される現代に詠われる時、掲句は財産もまた当てにならぬ滑稽さと読まれ得る。
夕桜使ひて器ねびまさる
昭和の日貸間探しに路地暮るる
留守の間に近所の祭過ぎてけり良く出来た人事句で、堅実な作者像は見えて来る。「夕桜」に匂う日本の美意識と「ねびまさる」なる上品かつ艶なる状態の結合。使い込まれ古びてゆく器は、作者がかくあれかしと願う生活であろう。「貸間」「路地」の語に含まれる近過去の日本への懐古、そして戦後の昭和生まれにとっては高度成長期を偲ばせる「昭和の日」の配合。「近所の祭」から想像される町内の小さな祭、そのハレと行き違う作者の時間。しかし、ここに詠われる事物は皆、微かな滅びの匂いを纏っている。その匂いに対し作者は異邦人のように、常に一歩離れた眼差を以て愛惜の念を表す。美しい穏やかなものが、いずれ廃れ滅びる事は、作者には充分見えていて、それゆえに、かくも明晰にそのあわれさを描き出す。ただし、その明晰さはそれ自体が、事物をオブラートでくるむ働きもするのだ。先の「雁瘡」「褞袍」の句でいえば、惨さをくるむというべきか。そんな作者が、無防備に己が浮き立つ心情を描いた次の句群は興味深い。
妻に逢へる出張バレンタインデー
「逢ふ」ではなくて「逢へる」と言った処、「会」の字を使わずに「逢」の字を使った処に、妻恋が良く表われている。おまけにバレンタインデーだ。妻がチョコレートを用意しているかどうかは判らないが、妻が笑ってくれていれば、チョコはまあ、二の次である。
今しつつ恋懐かしき五月かな
恋はいつか覚めるもの、なんて常識は、作者には無縁に感じられるのだろう。「今しつつ」に恋の持続が現われている。今の恋人は当然、作者の妻であって、その妻に初めて恋した時期が懐かしいというのだ。それは五月であったに違いない。二句とも見事なほど惚気まくっていて、しかし見せつけられて鼻白まないのは、男がそれほど惚気られるのは、その恋に命懸けているからだ。よその女の反応などを考えていては、とてもこれだけ惚気る危険は冒せない。だが、掲句においてさえ、「懐かしき」なる、顧みる形容が用いられている事は一考に値する。同句集の元旦の句、「初日記一日がもうなつかしく」を鑑みて、およそ元旦らしからぬ、一日という過去を顧みる心情に、作者の、時間に対する観照と、自らの生活や道程に対してさえ常に一歩離れて見ようとする眼差を考える。
遠く住む妻子と一家月見草
帰る家違ふ夫婦に後の月
鼾聞く人傍になき霜夜かな
作者が単身赴任しているという情報がなくとも、妻子と別居している、しかもその別居は家庭不和等の内的要因ではなく、例えば仕事などの外的要因である事は、今挙げた一連の句から窺い知れるだろう。「月見草」そして「後の月」は家族との繋がり、そして憧憬を、「霜夜」は独居の心情を暗喩する。
ここに見られるのはもはや日常と化した欠如である。通常、家族とは、日常を構成する最大要因であるが、作者にとっては家族の欠如が日常なのだ。別々に暮らしていて、しかも家族として成立している事による、一般の日常とは微妙にズレる我が身の日常を、作者は絶えず感じざるを得ない。次に浮かび上がるのは、日常に潜む非日常性の存在であろう。孤独に拠って見えるもの。妻子と和合しつつも、その妻子は普段傍にいない、という日常の二重性に裏付けされる観照がある筈だ。
梅散ってこの世のどこか軽くなる
桜なら重くなる。地を覆わんばかりに散り敷くからだ。藤や萩なら、小さい花だから、最初から軽い。梅の花の重さで丁度良いと思う。日本人には親しい、香りを伴う、めでたい花でもある。「どこか軽くなる」に、奇妙な安心が感じられる。「この世の」とあるが、実際には作者が見るこの世、つまり、作者の内観がなぜか軽くなるという事だ。ここに或る明るい諦観、もっと言うなら「明晰な絶望感」とでも表現せざるを得ない心情を感じる。
始まりへ音遡れ雪解川
雪解川の激しさと渾沌を思うなら、この始まりは単に川の発生した山中に留まるものではなく、存在しようとする意志の始まり、原初に発生した或る意志力を暗示しているのだ。己が心への観照に引き付けて読むなら、この原初の意志は渇愛(タンハー)、即ち存在の意志に必ず伴う妄執、とも重なるだろう。
暗闇は光を憎みほととぎす
ウィリアム・ローの言葉を思い出す。「人が地獄にいるのは神が人を怒っているためではない。彼等が怒りと闇に包まれているのは、神より限りなく流れくる光に対して、あたかも太陽の光に眼を閉じるのと同じように眼をつむってきたからである。」ほととぎすの声は、人間の妄執の叫びと読める。「季語は自分」なる作者の日頃の主張を思うなら、作者は己が妄執に対して少なくとも自覚的である。
ひと抱へ運べる卒塔婆萩散らす
卒塔婆の数は死者の数である。一抱えでどのくらい死者の魂は運べるだろうか。運ばれる最中の死者の魂が、生きている萩に引っ掛かり、花を散らしたのだ。先に萩の句を挙げたが、散る一花一花に死者の魂が暗喩されるなら、萩の株自体が世界の暗喩と見える。卒塔婆を運ぶのは誰なのか、僧か、親族か、或いは名付け難い大いなる手を持つ誰かなのか。
白梅や死んでから来る誕生日
死が記録である以上に、誕生もまた記録である。実際の生とは無縁に、記録としての誕生日は毎年巡り来る。誕生日は極めて個人的な祝日である筈だが、掲句の如き、これほど空しい祝日があろうか。白梅を置いたのは、死者へのせめてもの手向けであり、或る明晰な意識でもある。「誕生日」と置く事によって強められる、あらゆるものがいつか必ず死ぬと観照する眼を、梅の白さに読むのだ。
白日のプールサイドに失踪す
「見失った」のではなく、「失踪」したのだ。プールという、周囲を金網か塀かに囲まれた空間の、しかも水中ではなく、硬いプールサイドで。夏のプールは混雑しているから、人に紛れる事は日常だ。これが「失踪」となると、プールサイドに開いた異空間に、いきなり呑み込まれたような不安が生じる。ここで日常は、唐突に非日常へ繋がる。そもそも日常とは何であろう。昨日と変わらずに来た今日が明日も来るとは限らない事は、東北大震災により既に思い知らされてしまった。海が町々を呑むなら、プールサイドとて異界の門の開く可能性は有るのだ。何ものも恒久ではなく、真に安心して依り得る対象はない。
作者と私の師事した藤田湘子の指導は、俳壇屈指の厳しさであった。だが、湘子の叩き込んだ定型感覚、言葉の精確な所作も、それを希む強い動機が作家自身の側になければ、結局、身につかない。作者の作句姿勢は、恐らく「明晰な絶望感から生ずる精確な所作」とでも表現出来よう。(それは大震災以前、単身赴任以前からの生来のものではないか。)明晰な思考に裏付けされた眼に、あらゆる盛衰が観察されてしまう、その絶望の微かな匂いを論証し切る事が出来なくとも、同じく瞬かぬ眼を持つ者なら嗅ぎ取る事は出来よう。その見え過ぎる眼が観た幻が、次の句である。
夜道ふと白昼に出づ春の海
「ふと」としか言い表しようのない、突然のしかも静謐な変化によって、夜道は白昼と化すのだ。これはどう考えても幻想詠である。しかし、このような現実を我々は既に知っている。「春の海」という、かつて季語においては穏やかな寛いだ大きさを象徴した筈のモノが、突然反転して二万人の命を奪った、あの大震災は国土レベルで刻まれてしまった。その史実により、この幻想詠はあたかも日常詠のような当然さを持ってしまう。その絶望感において、日常と非日常との境は今や何処にあろう。震災の後、そして未だ終結しない原発事故の傍らに、営々とまた日常は構築され、日常は詠まれ続けるが、それはかつての日常詠ではない。戦後の焼跡から構築され、高度成長期を目前にした頃の日常詠でもない。国土の汚染が、テロが、大恐慌が、世界大戦が常に背後に迫る日常詠でしかありえない。そして未来においては、今は非日常詠や幻想詠としか読めない句が、日常詠として読まれるかもしれぬ。掲句の「白昼」とは、実は眩い光かもしれぬ。夜道がかく照らされる、その状況は文明の唐突な滅亡かもしれぬ。「作者と読者が思い出を共有する仕組みが俳句」と、句集「呼鈴」後書に記した作者が、しかし心にふと抱くのは、このような情景である。
(汀女の「火事明りまた輝きて一機過ぐ」を思い出す。句の前書、「三月十日東京空襲、B29幻の如く美し」と合せ読む時、一見慎ましい汀女の豪胆と絶望を知る。その上でなお、汀女は穏やかな生活を精確に詠い続けた。)
家族とは焚火にかざす掌のごとく
句集の題名となった掲句に、作者の希望が託されているだろう。火は、文化の発祥であり、今や制御不能になった文明である。近づき過ぎれば掌は焼け失せる。離れれば掌は凍える。距離を絶妙に保って、掌をかざし続けるしかないのだ。家族という、社会の最小の単位が、掌に喩えられるのは味わい深い。掌は、それぞれ独立して動き得る指をまとめ、且つその指達の総称でもあるからだ。掲句の掌は、作者自らの掌でもあり、或いは妻の、子供らの掌でもある。日常がいつ非日常へと変貌するやもしれぬ現在、個人である己が力で以て何とか守り抜けるかもしれぬもの、それを思う事で、作者の宥め難い明晰さは、漸く和らぎ得るのだろう。
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