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2014年7月18日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (1) /  筑紫磐井

(1)はじめに 

昭和40年代後半の沖における若手俳人の動向を書いて来たが、途中でふと気になりだしたことがある。昭和20年代には能村登四郎自身が馬酔木において若手作家として活動をしていた。登四郎にとってみれば、自身の昭和20年代の青春と、昭和40年代後半の弟子たちの青春とをどのような思いで比較していたのだろうか。自身を見る目と、他を見る目を比べてみると、戦後俳句の、移り変わったものと変わらないものとの違いが浮かびだしてくるのではなかろうか。

前の連載で、「沖」創刊早々の能村登四郎の青年作家に寄せる言葉を紹介したが、青春俳句はかくあるべきという変わらない思いと、一方で、実際の青年作家たちのギャップに当惑している登四郎がまざまざと浮かんでくる。登四郎の内心を考察するには、登四郎自身の青春時代をまず知らねばならないだろう。例えば、妙な言い方だが、昭和40年代後半の弟子たちの打算・戦略と、能村登四郎ら昭和20年代後半の作家たちの打算・戦略とを比較しなければ、両世代の作家としての動向を比較はできないはずだ。

ただ、こんなことに関心を持つのは、当時の「沖」の若手作家の中ではせいぜい私ぐらいであった、なにしろ皆は自分のこと(俳句)に夢中であったから。したがって、後日、「若き日の登四郎」「処女句集研究」という連載で登四郎の初期作品を細かく分析した作家論を書いたのだが、(編集長の林翔以外)およそ反応はなかったようである。しかし、こうした作家個人に注目した研究は、時代を理解する上で必須だと思う。そして同時に、能村登四郎の青年時代を研究するということは、藤田湘子をはじめとした馬酔木系の有名無名の青年作家(当時いずれも無名であり、その後結果的に有名になったに過ぎず、当時は誰も彼も無名でありながら、野心に満ちていたはずである)を研究するということである。そうした集団の歴史というのはなかなか研究する機会がないに違いない。

ここでは、能村登四郎のたどった俳壇的生活を能村登四郎の目から見て描いてみたいと思う。

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能村登四郎は昭和14年から「馬酔木」に俳句を投稿したといわれている(これが間違いであることは次回述べたい)。28歳であり、当時若い作家がたくさんいたから晩稲(おくて)であるといわねばならない。国学院大学在学中には同人誌で短歌を発表していたが、卒業後はそうした文芸からしばらく離れ、千葉の中学の教師として変化のない生活を送っていた。こうした中で俳句を始める。

当時の馬酔木の状況は、ちょうど加藤楸邨、石田波郷が活躍し、山口誓子が同人参加をして深青集という連作俳句の投稿欄を持っていた時期であった。昭和7年に「馬酔木」がホトトギスから独立してその存亡を危ぶまれた時期からだいぶ落ち着きを得、一方改造社から昭和9年に創刊された「俳句研究」が順調に俳壇をリードして、いわゆる新興俳句と草田男・楸邨・波郷ら人間探究派が脚光を浴びた時期で、これを受けて「馬酔木」は最も華やかな時代であったのだ。特にその直後、波郷は「鶴」(昭和12年9月創刊)を、楸邨は「寒雷」(昭和15年10月創刊)を創刊していたから、登四郎の新人時代とは俳句が希望に満ちあふれていた時代ではなかったかと思われる。

しかし、時代的には、既に昭和12年支那事変(日中戦争)が始まっていたし、直後の昭和16年から大東亜戦争(太平洋戦争)が始まるわけであるから、正確には光と影の交錯した時代であった。

「馬酔木」にも「俳句研究」にも、やがて戦時の風が吹きこみ始める。「馬酔木」には<聖戦俳句抄>が設けられ、「俳句研究」には<支那事変三千句>等の特集記事が出てくる。「馬酔木」作家からも、小島昌勝、相馬遷子、石田波郷らのように従軍して行く作家たちが続出した。いや何よりも、紙の配給制限からみるみる雑誌の頁数が薄くなり粗悪な資質となっていった。やがて、昭和15年には新興俳句系の「京大俳句」「広場」「上土」の俳人たちが治安維持法違反で逮捕されるという弾圧が行われるのである。

昭和16年から20年の休刊まで、この薄い雑誌に登四郎はささやかな市井の営みを詠った俳句を発表し続ける。



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