十時海彦は昭和51年ごろ誌上から姿を消してしまう。その直前の作品から眺めてみることにしよう。
50年5月特集青年作家競詠
霞ヶ関
十時海彦
今朝の冬凶器たるべく靴を磨く
冬木立高層ビルにひびを入れる
妥協なしビルの四壁も木枯も
木枯やペン画のごときビルの群
ビルの根に噴水凍るただ一輪
寒燈のビルまる見えのサラリーマン
冬銀河一万の椅子ビルに死す
寒夜またも地中の駅への四角な灯
地虫出づ手に荷物なきサラリーマン
熱帯魚へらへら暇な喫茶店
49年4月から十時は文部省に入省するから、「霞ヶ関」とはまさに当時の虎ノ門にある文部省の風景である。十時の従来の俳句とは違った都会俳句であり、索漠たる感じの風景作品となっている。句に出てくる「サラリーマン」とは、官僚はサラリーマンとは厳密には異なる筈だが時間を切り売りしている点では異ならず、自嘲気味に自らのことを呼んでいる。
あまり楽しそうな雰囲気ではなさそうである。
51年5月特集・沖の20代
鶴
十時海彦
米研ぐや鶴めざめゐる水明り
天と地と金剛力の鶴一本
鶴食ひし夢の如くに昼の雪
鶴も地も夜へ回りゆく吾もろとも
風花のふれあふ空の深さかな
寒鯉を夜の雲おほひ尽しけり
寒鯉の鱗の数の完結す
酔へば歌ふ青春無頼の懐手
鷲遠くなぐれゆきても流氷群
薄氷を剝ぎて汲む水やはらかき
鶴白し檻のまはりに春暮れて
眼鏡はづせば名知らぬ鳥の雲に入る
鳥わたる村の出口の仏達
父母の家を無数の鳥の目がわたる
わたり鳥ひろがりちぢみ消えにけり
これは沖誌上での十時最後の作品となってしまった。再び「鶴」「鯉」「鳥」の題詠へ復帰している。20代の十時の本領は題詠であったようだ。さらにこの特集では小文で俳句が作れなくなった状況を詳しく書いている。就職後2年目にして力尽きてしまった感じがよく分かる。聞くところによれば、この頃、地方の教育庁に赴任し、労務問題に対応していたらしいから俳句どころではなかったのだろう。
気持の余裕がほしい
ここ2年余り殆ど俳句が作れない。正確に言うと、そもそも作ろうという気が起こらないのであるが、作ろうとしないことも広い意味では作れないことのうちに入るのであろう。理由は簡単である。気持ちの余裕がないからに外ならない。俳句はわずか17文字であるが完結した1つの世界を表現せねばならない。そのためには気持ちの余裕が必要である。矢張り当分の間、私は作れないだろう。
ほとんどの青年作家がこうした経路をたどって俳句から去っていった。再び蘇るのは、40代になってからとか、60歳の定年を迎えてからとかになるわけである。当時のことを考えると、青年作家がいないわけではなかった、青年作家が続けることが難しかっただけなのではないかと思える。
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