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2014年6月6日金曜日

 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その十八~ 網野月を

  (朝日俳壇平成26年6月2日から)
                           
◆母の日を知らざる母の位牌拭く (武蔵野市)水野李村

大串章の選である。選者の評は「第二句。母の日にカーネーションを贈られることもなく亡くなった母。」とある。句意はとても解り易いものであり、作者の亡母を思い遣る心根が素直に表現されている。

カーネーションを母の日に贈る習慣は、アメリカ発であるという。日本においては嘗て母の日を地久節に行っていた経緯があるようだが、昭和初期の事でありカーネーションを着けたり贈るようになるのは、戦後である。一九四九年頃に導入されたらしいが、一般化するのはもう少し時を経てからの事で、昭和四〇年以降のことであろうか?

掲句からは、一度はカーネーションを在りし日の亡母へ贈ってみたかった、母親の喜ぶ顔を見たかったという作者の思いが伝わってくる。俳号から作者は男性であろうかと想像するが、息子としての母への思いが飾り気なく表現されるところにこの句の価値があるように感じる。句切れが無く一気に詠まれていて、そうした作者の感情の在り様を表している。

次掲句も同じく大串章選である。

◆蜂は飛ぶボルガの舟歌歌うごと (松戸市)大谷昌弘

上五でいったん切れを作って、中七座五が「飛ぶ」を修飾している形である。「蜂」から「ボルガの舟歌」へ飛躍した点に面白味を感じる。こうした飛躍にもかかわらず、俳句を嗜まない方々にも解り易い句になっている。

たぶん大きな蜂なのではないだろうか?低音の羽音を想像する。巨体を運ぶ頑丈な羽音と、ボルガの舟歌を口遊むみつつ櫂を操る船乗りたちの力瘤とが相当していて、修飾表現の飛躍の中にメタファの共通性を感じることが出来る。

同じく大串章選の句に

◆雀の子人に飼はれて人の子に (熊谷市)内野修

がある。巣から落ちたのであろうか?引き取って養っている作者の心優しさが滲み出ている。おまえも人の子になってしまったなあ、という感慨と共に野性でなくなってしまった、野性を失ってしまった雀の子に将来への一抹の不安を感じている作者がいる。中七座五の意味は肯定とも取れるし、否定とも取れる。その句意の奥深さが掲句の真情であろう。上五で僅かに切れを作り出しているが、意味的には切れがなく一気に読み下して良いように思う。





【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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