96.とこしへにあたまやさしく流るる子たち
父と母のDNAを受け継いだ子たちが、永遠(とこしへ)に流れていく。
「流」の旁(つくり)である「㐬」は人の倒形で、流屍の象。それに水をつけ、羊水の中で流れる様を表す。まさに水子のことであり、敏雄の句の巧妙さが伝わってくる。
永遠に浮遊する命、それは三橋敏雄の俳句のことのようにも思える。
高柳重信における一句における俳句形式の詩性とは一線を隔て、三橋敏雄はひたすらに語と語の相互関係から生れる何か、句と句の連なりによる連歌を土台とした流れの中で生まれる何かを『眞神』に創造していったと思える。水を意識させることにより命の流れゆく様と重ねあわせ、自らの俳句が永遠に流れていくようにという祈りにも似た句として読める。
句意として水子の命が永遠につづくことを詠う。「水子」というのは、流産した胎児に対する仏教の戒名であり、子供を神仏に返す意味から「水子供養」の儀式が行われる。「水子」の概念は仏教的なものである。いずれにしても「命」を意識する日本人の倫理観と関係している。
語句の解析を試みると、「あたま」として思い出すのは西東三鬼の句である。
頭悪き日やげんげ田に牛暴れ 西東三鬼 『今日』敏雄句に「頭」という語句が入った句は、『眞神』他に二句、計三句収録されている。いずれも唐突である。
22.蛇捕の脇みちに入る頭かな他句集での「頭」という語句使用は下記がある。
69.夕景や降ろす気球のあたま一つ
夏蜜柑もて打つ頭騙しかな 『鷓鴣』三鬼の「頭悪き」は、アタマが悪い日とその裏にアタマがいい日ということを考える面白さがある。敏雄のアタマはどうか。身体からどこか切り離された、アタマ、頭蓋の間で何か詰まっているもの、頭脳、あるいは英知のことと捉えることができる気がしている。敏雄のアタマは悪い日がないのではないだろうか。といっても鼻にかかるような敏雄ではないところが流石のアタマである。
諸家の句集堆(うずたか)く積み頭を垂るる 『畳の上』
わが頭に掌のせメーデーの夜の小父 『まぼろしの鱶』
頭を強調するように流れてゆく様は、「知」を「血」とかけあわせ、俳句史のうねりの中に自らの俳句が流れていく様であるようにも思える。「あたまやさしく」は状態として捉えると、流れてゆく子が、自分のアタマを大事にしている様子と読める。また一方では「あたまやさしく」の後で切れ、「流るる子たち」との間に省略が考えられ、作者が子のあたまを「やさしく」扱っているという意味となることである。
句集の配列による読みを試みると、前出65・66句目<柩舟やゆくもかへるも流れつつ><海ながれ流れて海のあめんぼう>にて、そして77句目<産みどめの母より赤く流れ出む>として現れた「流れる」の語。今回の96句目以降春・夏の季感の中で再び「流れる」句を多く配置する、命が、なまあたたかく浮遊する。
上掲句は94句目<ははそはの母に歯はなく桃の花>の母、95句目<さし湯して永久(とは)に父なる肉醤(にくびしほ)>の父に続く配置で、四句前の92句目<水づたひ浮いて眞白き産み流し>から連なるように、現世を生きてゆけない命が永遠に浮遊していく様である。
92句目から104句目の12句を列記してみると、春から夏への移行である。野辺のうららかさから<水>と<肉>が交互にまじりあい、また山に帰り夏へと移ってゆく。『眞神』の中で、<流れる>ということは、父をひとつの精子とし、受精した卵子が母体から羊水とともに流れてゆく様を詠う。その意味とは、我という自我であり、生命体である。
92.無季(水) 水づたひ浮いて眞白き産み流し
93.無季(山) めし椀のふち嶮しけれ野辺にいくつ
94.春 (山) ははそはの母に歯はなく桃の花
95.無季(肉) さし湯して永久(とは)に父なる肉醤(にくびしほ
96.無季(水) とこしへにあたまやさしく流るる子たち
97.夏 (水) 飛ぶ鳥よあとくらがりのみづすまし
98.無季(水) 青白き麺を啜りて遠くゆく
99.春 (水) 死水や春はとほくへ水流る
100.春 (肉) 肉附の匂ひ知らるるな春の母
101.春(水) 水重き産衣や春を溺れそめ
102.春(肉) 晩春の肉は舌よりはじまるか
103.無季(山) 舂く日靴屋は山へ帰りゆく
※()内は句からイメージするキーワード
春から夏にかけては<水>を意識する季感である。そしてその季節に<肉>という生々しいと思える語が置かれるには、妙にあっている季節であることも見逃せない。
※『眞神』収録の「流れる」語のある句
59.海ながれ流れて海のあめんぼう母、父、そしてまだ見ぬ命、これは内面の吐露でも、写生でもない句たちである。
65.柩舟やゆくもかへるも流れつつ
77.産みどめの母より赤く流れ出む
92.水づたひ浮いて眞白き産み流し
96.とこしへにあたまやさしく流るる子たち
99.死水や春はとほくへ水流る
109.蝉の殻流れて山を離れゆく
『眞神』においての配列には、連句の手法がとられていることは、今までも述べてきたことであるが、芭蕉が発句として俳句を成立させた以前の連歌、連句の美学とはどのようなものであったのだろうか。
<俳文学大辞典>による<連歌>の項<美的特質>を引くと、一巻には、序破急(※1)の原理によっての展開が重視され、主題や構成があるわけではないが、良基の連歌論によれば、当座性と興遊性と詠吟のもつ聴党性に和歌と異なる連歌の特質がとらえられ、その上に連歌の文芸化が図られている。(中略)連歌の美の特質について、石田良貞は、救済の句を取り上げ、隠者の離脱精神を取り入れることによって、世間的な俗情精神から厳しく離れたところに、連歌を打ち立てることにあったという。
(※1)序破急
舞楽における拍子の緩急を、連歌の一巻の展開にあてはめたもの。
序は、穏やかな導入部、破は穏やかな変化、急は早いテンポの高まりを示す部分。序、穏やかな地連歌で通し、二は破で「ざめき句(にぎやかな句)」三、四が急となり、面白い句をあつらえるようにすべきと説く。
敏雄が和歌・連歌の流れから俳句をどのようにとらえようとしたのか、推考にまだ時間がかかるところだ。和歌・連歌が王道であるならば、俳句は偽書であるという考えもある。
『眞神』の一連の「流れ」という語について考えると、上掲句の水子の意もさることながら隠者文学としての源流と重ねあわせることができる。『眞神』の世界観を構築するムラ、俗世から取り残された山の生活、それは、中世の長明・兼好・西行を代表とする隠者の生活そのものではないか。閑寂な生活、人間の性の直視、絶対の孤独というもの。産れては流される命、それは漂白の旅人として永遠に現世を彷徨う。改めて気づかされるが、『眞神』には俳句の源流が漂っているのだ。『眞神』の中に潜む離脱精神が何かはまだつかめ切れないままにいる。
世に出ずとも命あるものとしてこの世に存在しようとし流れていった水子。仏教的に考えれば命あるものは流れされ永遠に輪廻する。人間の英知とも重なりあわせることができる。人間のアタマは悪い時とよい時があるが、やさしく愛おしめばその英知は無限なるものである。そして英知から一度生まれた言葉による心の動きを永遠に輪廻させる、敏雄自身の俳句精神のことのように読むこともできる。知を柔軟に保ちつつ永遠にさまよう隠者、三橋敏雄、そして三橋敏雄の句は永遠に生きつづけると思えるのである。
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