53年5月号は特集「沖の二〇代・一〇代」である。今瀬剛一の司会で、大関靖博、能村研三、大橋俊彦、鎌倉佐弓などの参加により「俳句の未来を考える―青年作家座談会―」が行われている。俳句の未来は明るいらしく、まことに幸せな座談会で、後にこの年の評者からその甘い考え方を木端微塵にされている。
評者はいう、一つの思いに従って一つの方法があり、その方法に従って機械の作動の如く1句が生成される、――それは一種の近代合理主義であった。しかし、現代は、人の思いの不確実性、不確定性、不実、それにふさわしい言葉の多方向性を思い知ることが、現代からの言葉への、俳句への関わりであると宣言する。だから座談会に登場した沖の青年作家たちの固定化した思いや意味の固定化を嫌う。今までの評者の中でこんな、「沖」若手作家に対する嫌悪感に満ちた評論はなかったであろう。
例えば一例、大橋が現代俳句の未来としてあげた、「海を出て木枯帰るところなし 誓子」を、「それは感情論理の一種の常同であり、ひどく物わかりの良い、非「現代」的一詩風景なのである。」と一刀両断に切り捨てている。
それはさておき作品を見てみよう。
陽炎
熊本県 正木ゆう子
夢に入る境のごとくかぎろへり
霾るや馬上の父をわが知らず
怖ろしき夢より逃れてきて春暁
朧夜の漆器を拭ふ手暗がり
故郷の電話より春愁ひ初む
無防備の身の紅梅に入りゆけり
触れるもの色づきさうな桃の昼
夫ありて猶セーターの黒を愛す
髪を切る音より春の確かなり
囀りや鏡中うごくものばかり
盛場の灯も春燈といふ寧さ
それぞれに温き血抱き浮寝鳥
抽斗に匙を重ねて雛の夜
水音に手を晒す日々豆の花
魚屋の灯を出て濃き朧かな
昭和二十七年六月二二日生
ひとつの完全な夜の憧れがある。閉ざされた、胎内のような暖かい闇。それはまた輝く昼、あるいは生への予感でもあって、たとえば一人の魅力的な男性、一枚のレコード、一冊の本の中に、それはある。そして完成されたひとつの俳句は、完全な夜そのものだ。
完璧な夜のような俳句への憧れは、皮肉にも未熟な無数の言葉を吐き出すことになってしまうけれど、それでもあきらめることはないのだろう。
首夏の章
東京都 筑紫磐井
滝落つる飛沫次第に白熱す
万緑につぶての如き訃報くる
木下道すこし濡らして金魚売
炎天を滴りすぎし黒揚羽
ののしりて蛇捕り草を薙ぎ打ちぬ
秋風に死に急ぎゐる蝉一途
怒涛幾千島の向日葵ゆるぎもせず
泳ぎつつ湖の光の芯となり
網戸ごしに夜がいきいきと遠蛙
春山の濡れし谺がかへり来る
十六夜を薄墨ながれほのめけり
霧の奥からぬっと出て晩稲刈
さびしきとき穂絮をとばす岸の蘆
ごくごくと二月の水が胃に落ちぬ
おびただしき蝶がささめく夢のあと
昭和二十五年一月一四日生
狂言「木六駄」を見た。荒筋は、京に住む主人の伯父へ歳暮を届ける筈の太郎冠者が雪山の寒さの中であずかった酒をのみほしてしまうという単純なものであったが、野村万蔵親子の演技は気魄にあふれており、狂言の持つ象徴性と大衆性の融和は、現代においてもいささかも風化してはいなかった。今日、少なからず俳句の見みならうべき点があるように思われたのであった。
正木ゆう子の文章は意味深長だ。正木ゆう子は前年の52年夏、結婚していた。この年の句や文章に、従来全くなかった「夫」や「魅力的な男性」が出てくる理由である。なお、結婚後は東京にいるので住所が熊本になっている理由は不明である(編集部による単純な誤りか?)。私の方では、親の野村万蔵は6世のことであり(この文章を書いた直後になくなっている)、子は野村万作(現萬斎の父)である。
そして8月号で、問題の阿部完市が「私はこう思う―沖の若い作家へ―」で批判する。繰り返しになるが、間違いなく「沖」誌上でこれほど青年作家が酷評されたことはなかったのではないか。阿部完市らしいといえば阿部完市らしい。大半が座談会に対する批判であるが、最後にわずかに、作品の批評がなされているが、「共に一種の理屈ではないか。貧しい身振り、だけなのではないか。」(大橋俊彦)「もっと深を、真を。」(陶山敏美)「若さ、の常套しか見えぬ。」(堀江棋一郎)「言葉への馴れが見えて不可。」(石井洋子)「二句共に、いまだ一句でも詩でも・・・。」(桑原貞夫)「報告のみ。「俳句は誰のためでもない、唯一人の読者のために作られるのだ。」の自己の言葉への思いを厳しくくりかえすべきだ。」(千賀隆則)。
従って、正木ゆう子も、私も、木端微塵である。しかし、批評するということはこういうことも当然の前提であろう。
夢に入る境のごとくかぎろへり ゆう子
傍線部不満が残る。しかし何かある。
秋風に死に急ぎゐる蝉一途 磐井
もっと自己のいつもの思い、皆の思いへ反逆しなければ。秋風、死、蝉では何の反もない。順の美しさもない。美しさらしさが浮くだけ。「おびただしき蝶」の句、好作。
かくて阿部はこのように結ぶ。
誤解を恐れずにくりかえし言うが、俳句とは「個」の詩と思う。そして「個」の第一義の孤立が、次にふと自己の内包すること、自己に加えること、という孤の裏のことが思われるとき、そこに「連」があり、「他」が第二義として見えてくるのだと思っている。
流行(ハヤリ)、に従うことは非個であり非孤であろう。がんこにむしろ他に従わぬこと――あるいはそれのみが自己、私、個の詩、俳句への直接であるはずである。
しかし沖の青年作家たちにこのメッセージは到底、理解出来なかった。結社に育つ限界であったのである。だから翌年の青年作家特集で、能村登四郎は分かりやすく、結社の言葉でそれを解説しなければならなかったのである。
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