【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2025年7月11日金曜日

【連載】現代評論研究:第11回総論・攝津幸彦2 執筆者:北村虻曳・北川美美

(2011年09月23日)

●―3攝津幸彦一句鑑賞/北村 虻曳

 戸締まりの亡父の脛より花ふぶく  『鳥子』

 「戸締まり」という語、最近はあまり用いない。使われるとすれば、国防論や排外主義の文脈で比喩としてだ。掲出句の戸締まり、様式は錠と言うより「締まり」で、昔普通の家では「捻子締まり錠」や、「落とし」、「かんぬき」、あるいは簡便な「心張り棒」で行った。「戸締まり用心火の用心」などと聞かされたように主として寝る前に家を見回って行ったものである。しかし今は、外部に面する戸は出入りのたびに錠を下ろすことが決まりであるから就寝前に限ったことではない。行き交う人の殆どが「他所者」であるからだ。

 この句の亡父は自ら見回るのだからふんぞり返っている亭主ではない。そこで昭和前半の景としよう。この場面の「亡父」には、洋服よりもパジャマよりも寝間着を纏わせたい。やや腰の曲がりかけた亡父が戸締まりを行っているのである。その頃は五十代でもりっぱなおじいさんであった。亡父は、かってこうであったという像というより、今まぼろしとして顕ち現れる父の像であろう。攝津の父が何時亡くなられたか、あるいはご存命かは存ぜぬが、句の中は自由の王国であるから彼自身がこうした考証や辻褄合わせに拘(かかず)りあっているわけではない。

 さてその父の細いすねから桜の花吹雪が発っている。翁と花吹雪と来れば、我々の記憶の蓄積が指すものは能・芝居である。そんなものを実際に見たことがほとんど無い私でさえどこかでならい覚えている。亡父のわびしい姿が一挙に舞台に立つ。戸による姿は杖による旅姿とかさなり、住まいは野面となって風にさらされる。やがて脛も身も風にちぎられて飛びさり消えて行くだろう。

 幽玄であり、耽美的である。攝津の句には、おっとりとしたはぐらかし・アイロニー・ちゃかしなどが含まれていて揺らぎがあり、この句のようにまともに古典美に通じるものは少ない。しかしそれが半ばリアルな「戸締まりの亡父」に担われるというところが、俳味でありひねりである。(作句の手順から言えば「脛より花ふぶく」の方がひねりであるが。)そしてこのひねりがなければ、脛が花となって吹雪いても、当代のCG、VFXとなり、幽玄の幽が消えてしまうのである。


●―12ジョン&メリー  北川美美

 国境の西にジョン&メリー没る

 「ケンとメリー」ではない。ジョン&メリーである。

 「現代俳句」9号(1980年)に寄せられた幸彦のアンケート回答に以下がある。

問:俳句における課題、執筆・出版予定など

答:自分なりの俳句の完成期をどこまでおくらせることが出来るか。「豈」に精力的に作品発表する予定。来春、書き下ろし句集「John & Mary」を上梓の予定(千句くらい)。

 ジョン&メリーがお気に入りだったようである。

 『ジョン&メリー』。1969年のアメリカ映画。ダスティンホフマンとミアファロー主演によるニューヨークを舞台とした24時間のラブストーリー。メリーは、自由奔放だが知的で自然体な女性。嫌味がなく、上品な可愛さがある。ふとバーで知り合ったジョンとメリーは一夜を過ごすMid Centuryな白を基調とするジョンの部屋。朝を迎え朝食、そして昼食までも共にし、他愛無い話を二人は続ける…。

 暗さのない映画である。会話、衣装、インテリア、NYという街、“おしゃれ映画”の部類として今後も残っていくだろう。

 掲句、青春を葬る儀式を『ジョン&メリー』に託しているように読める。ブレッド&バターの『あの頃のまま』(1979年・作詞作曲/呉田軽穂:ユーミンのペンネーム)は「サイモン&ガーファンクル」が出てくるけれど。

 その後の幸彦句は、『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』(藤田敏八監督)の秋吉久美子風な女性の影がたびたび登場する。そのような幸彦の脳裏に描かれた女性を「金魚」に置き換えているという説もある(@金魚論争)。日本のヒッピー文化の洗礼を学生時代に受けている幸彦世代は、西洋のそれと違い、通称フーテンともいわれアンダーグラウンド文化の基礎を作ったといってもよいかもしれない。文化は暗闇から生れる。

 「没る」は、「いる」と読むと予想するが、「ぼつる」の業界用語のように読むこともできようか。(山口誓子の句に「郭公や韃靼の日の没るなべにとは」「太陽の出でて没るまで青岬とは」がある。誓子を踏んでいるとすれば、「いる」だろう。)また「国境の西」とは…。「国境の南」であれば、ナット・キング・コール『国境の南』ジャズのタイトルがあり、村上春樹(*1)の長編小説のタイトル『国境の南、太陽の西』(1995年)はそれからきているらしい。オリバーストーンの映画のタイトルにも”South of border”がある。ヒントはその辺から得たとしても、どうも違う。青春を葬るのであれば、「国境の西」とは、日本の西、幸彦が青春時代を過ごした箕面、枚方あたりかもしれない。

 秋出水「カルメン故郷に帰る」頃

 掲句と比較してみるとどうだろう。「ジョン&メリー」には鍵かっこ(「 」)がない。「カルメン…」の句は、映画『カルメン故郷に帰る』(高峰秀子主演/1951年日本映画)のストリッパーの二人が珍道中を繰り広げるあの時代の頃という郷愁がある。「ジョン&メリー」は、「ジョンとヨーコ」「ケンとメリー」「ジャック&ベティ」「ヒデとロザンナ」等々に置き換えることのできない、幸彦の中の永遠におしゃれな二人、ジョンとメリーを葬るのだろう。好きだった彼女と行った映画のパンフレットを破り捨てる、回想の恋を葬るのだ。

 幸彦は、『ジョン&メリー』に別れを告げ、デイビット・リンチの『マルホランド・ドライブ』(2001年米仏合作映画)的な現実・夢・空想・回想に読者を行き来させる。読者はどこかで起こったようなデジャブな自己体験を重ねあわせ、時に郷愁に浸ったり、映画を観ているように笑ったり、それぞれの人の脳裏に描かれるさまざまな映像を楽しむのである。


*1)村上春樹の2003年翻訳本の中にサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』がある。野崎孝訳が白水社から上梓されたのは1964年である。村上と同世代の幸彦も『ライ麦…』影響は多分に受けたであろう。『ライ麦…』冒頭箇所に主人公の兄の処女出版の書籍名が『秘密の金魚』であることにも驚いた。


●―12ショートショート風に 幸彦句の「淋しさ」  北川美美

 淋しさの涙で辺りが海になった。なまぬるい羊水の中に戻ったようだ。涙の海で泳いでいると太海(千葉県鴨川市)に辿りついた。立ち泳ぎをしながら陸をみると、つげ義春の漫画の原風景が見えた。『ねじ式』の男もいる。その海は唱えると鯛がでてくるという。鯛がそこらじゅうにいる。30年も生きた老鯛も。遠慮なく、(鯛が)体(タイ)当たり…。あぁ泣きながら可笑しさがこみ上げてきた。

 淋しさを許せばからだに当る鯛 『鳥屋』

 涙の海でぷかぷか浮いていた浮き輪。出てきた空気もそのまま涙になった。俺のあん子は煙草が好きでいつもぷかぷかぷか。西岡恭蔵は何故死んでしまったのだろう。やっぱりひとりが淋しかったのか。輪となれば淋しい、笑っていてもギターを弾いてもやっぱり淋しい。いつもぷかぷかぷか。

 輪となりし空気淋しも浮袋 『陸々集』

 淋しいという感情はいつから人間に備わったのだろう。夕餉の支度をしながらふと嫌われ松子は考える。ひとりものの女がつくる一人分の筑前煮。ひとは、いずれひとりで死んでいく。

 太古より人淋しくて筑前煮 『鹿々集』

 出張の次いでの日帰り温泉旅行。湯畑の階段で別の男女と眼があった。どこか後ろめたさのある眼差しはあの男女も俺たちと同じということか。神社の境内ではホトトギスが喉を赤くして鳴いている。東京に戻るまでに噎せ返るような硫黄の臭いと情事の怠さを取らなければならない。

 情交や地上に溺るゝ蜀魂(ほとゝぎす) 『鸚母集』

 外はギラギラと太陽が照りつけている、昼間のアパート。知らぬ間に部屋の隅で女が汗をかきながら泣いている。ふと女に手を入れるとすでに濡れていた。これは白日夢なのかと男は考える。自分はこのまま堕ちていくのか。ここを出なければ。

 手を入れて思へば淋し昼の夢 『鸚母集』

 薄暗いアパートから外に出ると、夏燕が忙しく飛び去って行った。雛に餌を与えるために飛び回る夏の燕は忙しい。頬に燕の糞がしたたれた。糞は、燕の涙だろうか。それとも松子の涙なのか。松子から離れるなら今かもしれない。

 肛門をゆるめて淋し夏燕 『鹿々集』

 しばらく連絡のない男の様子に気づき、松子は、男の仕事場である祐天寺のマンションに来た。エレベーターの中に落書きが彫ってあった。「松子のバカ」。ドアの前でベルを鳴らすこともできず、泣きながら非常階段を下りた。見上げると虹がみえた。

 階段を濡らして昼が来てゐたり 『鳥屋』

      ***

 「淋しい」という漢字「淋」には、「そそぐ」「したたる」「長雨」などの意があり、「さびしさ」の別の意味を持たせたのは日本特有の用法である。だから「淋しい」とは濡れている状態になりうること。淋しい→泣く→濡れる→エロティックという構図を描いてみる。淋しくてすぐ寝てしまう、薄幸そうな女についつい惹かれてしまう、男の儚い願望がみえる。


 萬愚節顔を洗ふは手を洗ふ 『鹿々集』

 泉よりはみだす水を身にとほす 『陸々集』

 ぬばたまの夜の人となり舟となる 『鹿々集』

 渡仏して極楽浄土の雨に遭う 『四五一句(未刊句集)』


 幸彦句は水っぽい。だからなにもかも流れてしまう。悲しさ、情念も流れていく。「淋しさ」も、諸行無常のものなの。彼の岸も濡れているのだろう。幸彦のいる岸辺は生温い涅槃の水であることを想像する。

 淋しいは濡れてゐること幸彦忌 美美