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2024年12月13日金曜日

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】 4 生命と野菜と蝸牛について三句 石原昌光

 じいじばあばの怪獣がトマト食う

テレビCMなどでは、イケメンのアイドルや俳優に

リンゴやトマトを丸かじりさせるのが流行した。

野菜や果物をワイルドに頬ばる様子が

若さと生命力の漲りを連想させるのだろう


一方で、人生の晩秋を迎えたじいじとばあばに

トマトを丸かじりさせるとどうか?

これまた、若人とは違う意味でワイルドだ

ガタガタする入れ歯ではちきれんばかりに赤い

トマトにかじりつくのは

肉食恐竜が草食恐竜に食らいつくのを連想させる

お行儀とは程遠い、食のドン・キホーテである。

歯の隙間から高確率でトマトの汁が飛び出す様と

トマトを飲み砕かんと目を剥く様は

まさに怪獣である。


決してTV受けしないであろう

じいじばあばのトマトの丸かじりの絵ヅラだが

その面魂に食糧難の時代を生き抜いた

人間の強かさを感じ取る。

生命を吸い取って生きてやろうとする

生の本能が感じ取れる。

高齢者には、お行儀なんぞより元気が大事である。

筆者の感性はそれを捉えたのだろうと

私は考えたりもする。


プチトマトたち感情あらわにせよ

はちきれんばかりと

形容できる野菜と言えば

それはトマトである。

トマトは汁気の多い野菜であるが、

その水分の多さゆえに大きく変形して

あべし状態のトマトも時たま見受ける。


今にも分裂せんとするその奇態は

憂悶の内に生を終えた人かのようで

不気味ですらある。


では、プチトマトとは何か?

それは少年少女である。

生命力に溢れていながら

その小さな胴体に

色々なモノを溜め込んでいる


SNS全盛の21世紀では

実名で何かを発信すれば

モノ言わば唇寒しどころか

モノ言わば総バッシングである。

まして、SNS以外に交流の場を

持たない少年少女には

それは死刑宣告だろう


しかし、それでも

言わなければ自分の考えは

相手には決して伝わらない

それが青臭い主張でも

嘲笑され、バカにされようと

自ら無機物になるよりは

ずーっと良い。


本心に蓋をし

建前だけを周囲に合わせて

話している間に

いつしか本当の心を失って

丸いプチトマトが

押し込まれた怨念で

ぼこぼこぶくぶくと

腫れあがってしまうだろう


良い子である前に

悪い子である前に

あなたは、あなただ

自分を表現しろ!

そのような筆者の叫びに

私には受け取れた。


返信の遅さもいいね蝸牛

親しい人の紙の便りは

待ちわびる事でさえ風情なのに

電子メールの返信待ちの焦燥感は

どうにも気持ちをかき乱す


たった一通100文字程度の

返信さえ寄こせないのか?

俺は、その程度の存在か?

などと、勝手に相手が

自分を値踏みしたのだと

やきもきする始末だ。


最近では電子メールにさえ

マナー講師なる人々が登場し

返信は30分以内で、

絵文字はNGだの

おじさんしか使わないだの

新しい飯のタネにしている


くだらない…

たかが磁石を近づければ

即座に分解する0と1の集まりに

なんで己の価値まで賭ける?


こっちはchatGTPではない

自動的に返信などできないのだ。

それが電気信号であれ、紙であれ

返信を出す時には、

心の一部を千切って出している。


だからこそ、帰ってこないと

寂しいのであるが

相手もまた、心の一部を千切って

出すのだから、少しは待つのが

風流だろう。


その余裕を持てるなら

人生はちょっとだけでも

行きやすくなるのではないか?

私はそう思う。


琉球歴史家 石原昌光