【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2024年9月27日金曜日

■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 1 筑紫磐井

【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】

――現代俳句協会評論教室のフォローアップについて(1)――


はじめに

 8月に行った現代俳句協会評論教室で私は「評論執筆のヒント───テーマの選択と手法」と題して講演させていただいた(8月17日)。前半は私の経験に即してのテーマの選び方、後半は具体例として能村登四郎を取り上げてどのような手法で評論を完成するかの講義とした。しかしもともとは、これは講義だけで完了するものでは無く、受講者からの具体的な提案・質問を受けてのフォローアップ研修が必要だと考えていた。今回なつはづき研修部長にそのための試行を相談することとした。

 実は以前、俳人協会評論講座を理事の角谷昌子氏と立ち上げて、ちょうどコロナが発生したところであったので「BLOG俳句新空間」を使ってフォローアップの研修を行い、かなりの参加者を得たところから今回も同じ方式をとってみたいと考えたものである(本BLOGの「■ 俳句評論講座」参照)。

 もともと受講者は、初めて評論を書いてみたいと考える人と、評論賞にチャレンジしたいと思う人が混在し、一律な講義では難しいと考えたからである。しかしこんな過程で始めた本フォローアップも、渡部有紀子氏や本年度俳人協会評論書受賞者大関博美氏のような書き手が現れたことは手ごたえがあったと考えている。

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 評論教室受講者からの反応がどのようにあるかはまだ未定だが、その前に、私が講演した能村登四郎の初期作品を使ってどうやって評論の形に仕上げてゆくかを示してみたいと思ってその概要を以下に示してみた。当日の講演資料(能村登四郎初期作品データベース)を参考にしてご覧いただきたい。

 もちろん評論の書き方に王道があるわけでもなく、定石があるわけではないが、いくつかのパターンを知っておくことは実作業としては役に立つだろう。

 

 なお念のために、能村登四郎を取り上げたのは、私が俳句を始めたときは能村登四郎の「沖」に在籍しており、当時かなりの能村登四郎初期作品データベースを作っていたからであり、当時若書きであるが「若き日の能村登四郎」を執筆していたからである(「沖」昭和57年7月号)。現代俳句協会の評論教室であるので、むしろ金子兜太や鈴木六林男を論じた方がよかったと思うが、作品データベースを作るには時間を要し評論教室の実施に間に合わなかったからである。その意味では受講者に不親切であったかもしれない。

 しかしこの初期作品データベースによる作家研究は私が考え付いたものであるが、能村登四郎以外のほとんどすべての作家に適用できる手法であるので、受講者にはその応用を他の作家においても試していただきたかった。

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 以下の論では、能村登四郎が自ら作り出した「ぬばたま」伝説とその浸透、私が初期作品データベースとの乖離を上げていかに作者は自らのことについて正しく認識していないかを実証してみた。これを評論執筆の手がかりにしていただきたいと思っている。


1.登四郎の「ぬばたま」伝説

 参考までに能村登四郎の略歴を張り付ける。

【能村登四郎略歴】

 明治34年1月、東京都台東区谷中生まれ。國學院大學高等師範部に入学、在学中、短歌同人誌「装填」に参加。卒業後、私立市川学園の教諭となる。昭和13年より、俳誌「馬酔木」に投句、水原秋桜子に師事。20年応召。除隊後に教員に復職。翌年に復刊した「馬酔木」に投句を再開。永らく「一句十年」「偽青春」の時代を過ごしたが、23年、馬酔木新人賞を受賞、25年「馬酔木」同人。当時、藤田湘子、林翔と併せて戦後馬酔木の三羽烏と呼ばれる。第1句集『咀嚼音』で教職俳句、第二句集『合掌部落』は社会性俳句の代表句集となり現代俳句協会賞を金子兜太と共同受賞する。協会分裂後しばらく「冬の時代」を過ごすが、第3句集『枯野の沖』で独自の心象俳句の世界で復活する。45年「沖」創刊、主宰。以後、60年、句集『天上華』で蛇笏賞受賞、平成5年、句集『長嘯』で詩歌文学館賞受賞。13年5月24日に死去。同誌からは正木ゆう子、中原道夫、筑紫磐井、今瀬剛一、小澤克己、鈴木鷹夫、鎌倉佐弓と多彩な俳人が巣立った。


 能村登四郎は馬酔木で頭角を現した時期の回想をしばしば行っている。一例を見てみよう。


【伝説資料1】

 「戦争が敗戦に了り、私は再び原職に復帰した。総てが逆になったような時代で教育の世界も荒れていた。私はもう一度日本人として謙虚に出直したいと思った。そして荒廃した日本語をもう一度勉強して正して行きたいと思った。それには詩の生活に入ることが大切だと思った。いくたびか詩の周辺にさまよった私は、馬酔木復刊を機に再び初心に帰って投句をはじ(め)た。時に私は三十五歳であった。やはり一年ほど一句がつづき、私は絶望に近い気持になり俳句を全く放棄しようとさえした。当時馬酔木は波郷・楸邨去った後で戦後の建直しの時期で新人を求めていた時でようやく秋櫻子先生のお目に止った。先生とも直接話か出来る機会もあった。昭和二十三年に私は久しいあこがれであった巻頭を得た。この時の「ぬばたま」の句について当時療養中の波郷から批判があった。そのいきさつは私の「伝統の流れの端に立って」や随筆「野分の碑」の中で書いてあるのでここでは省くことにする。」(「俳句」46年12月「恩寵」)


 ここで指摘している句は「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」と「長靴に腰埋め野分の老教師」の2句である。これが登四郎伝説のキーワードとなるが、これだけではでディテールが余り明らかではないので登四郎の随想「野分の碑」でもう少し詳しく眺めて見よう。


【伝説資料2】

 「昭和二十二年三月、私は思いもかけず馬酔木集の巻頭の栄に浴した。その時の句は、

  ぬば玉の黒飴さはに良寛忌

であった。秋櫻子の選後評を引用すると、 

「今の世で童たちがたやすく買える菓子といったらまず第一に飴であろう。いやこれは現代だけの話ではない。むかしも飴ならば手に入れやすく、童好きの良寛上人は袂の中にこれを忍ばせて、童たちに与えるのを楽しみにされたことと想像される。の着想がうかんだにちがいない。その上良寛上人は飴屋の看板を書いている。これが越後のどこかに残っている筈だーーそんな因縁がからんでくると、この句の味いは相当に深くなる。そうして全体に高雅な燻しをかけるため、作者は「ぬばたま」という枕詞を用意したのである。こんなわけでこの句は仲々念が入っており、古典的な風格をもつとともに現代生活とも関連している。」

 私は有頂天であった。俳句でこのような幸運を得られるとは全く考えたこともなかったからである。ところがこの句には横槍が入った。それは病重く清瀬で呻吟していた石田波郷からであった。当時波郷は未だ「馬酔木」へ復帰していなかった。波郷氏はあの黒飴の句は俳句に必要な具象性をもたない、あまりに趣味に溺れた句である。殊に枕詞を使用するなどは、若い生活派といわれる作者のすべきことではない。と難じられたということを「鶴」作家のKからきいた。

 相手が尊敬している波郷だっただけに、私はようやく獲た王座から転落していくような気がした。私は俳句の世界が考えていたような甘いものでないことをしみじみと知らされた。

 しかし私の「馬酔木」での成績はこれをきっかけに上り、その後幾度か巻頭をとり、昭和二十三年藤田湘子と一緒に馬酔木新人賞をうけて同人に加わった。

 しかし同人の末席についたその時から、私は第二の危機にのった。そんな中でつくる俳句に生活の実感が流れないのは嘘だ。私は貧しい自分の現実を確かめ確かめしながら俳句をつくろうとした。そんな時に、

  長靴に腰埋め野分の老教師

の句を得た。この句は九月のはじめ台風の日、古びた雨傘にやや猫背の体をかばいながら、よろめくようにして登勤する菅田先生の姿を何気なく詠んだものである。(略) 先生をモデルにした句をいくつか詠んでいる中に、私は妙にやるせなくなった。矜りと満足の中に生きる先生の姿があまりに痛ましく惨めだったからである。私はこの先生の姿を眺めながら、教師として生きることに心弱くも煩悶した。

 私は、自分を含めての教師の姿を刻みこんだ二十五句を「その後知らず」と名づけて第一回の新樹賞応募作品に提出し、幸運にも受賞した。

 この時批評にあたった石田波郷は次のように言っている。 

「この「長靴に腰埋め」の一句を得たことによってこの一編二十五句の努力は充分酬われたものと考えたい。この一句は他の二十四句とは把握も表現も隔絶している。他の句には多かれ少かれ作者の情感の色づけが見られるのに対してこの一句にはそれがない。野分の中に長靴に腰埋めた一老教師の姿を描き出しただけである。作者はその他の一切を抑えて発しない。(中略) 俳句表現の特質を端的に示した一つの典型である。」

 又波郷はこの句を俳句講座(明治書院)の「現代の名句」の中でとり上げて、次のように言っている。

「野分の中を出勤する老教師の姿をこの句は力強い線で適確に描出しているが、作者はその姿に自らのうらぶれた未来の姿を見ているのである。それはやがて避けがたい運命のようにやってくるにちがいない。」

私は波郷というすぐれた先輩をもった幸を思った。」(昭和41年9月「野分の碑」)


これを具体的な「能村登四郎年譜」でたどってみれば次のとおりである。


【能村登四郎年譜】

●昭和21年(1946)   35歳

 すべてにおいて変ってしまった教育に甚だしく疑問を抱き、仕事に張りを感じなくなった。学友、教え子多く戦死。「馬酔木」復刊を機に、もう一度俳句を一から始める気持で投句するも相変らず一、二句入選。

●昭和23年(1948)   37歳

 三月、「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」の句一連で「馬酔木」巻頭となる。秋櫻子の激賞で有頂天になったが、当時清瀬に療養中の石田波郷から、趣味に溺れた新人らしくない句だと厳しい批判を受け、少なからずショックを受けた。

●昭和25年(1950)   39歳

 同人の末尾に列座したものの、従来の方法から脱却出来ず、新しい方法の摸索に苦しむ。

●昭和26年(1951一)  40歳

 「馬酔木」三十周年記念の特別作品に「その後知らず」25句を応募し、第一回新樹賞を受賞。この中の「長靴に腰埋め野分の老教師」の一句は波郷の激賞をうけ、ようやく作品の方向が決った。


 戦前からつづく「相変らず一、二句入選」時代を後の登四郎は自虐的に「一句十年」と名付け、ここから抜け出すきっかけが「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」、「長靴に腰埋め野分の老教師」であったというのである。これは登四郎が常に語り続けた伝説であった。今も「沖」ではこの伝説を語っている人が多い。

(続く)