すでに述べたように『和紙』は昭和23年から44年までの長い期間の作品をおさめている。このため、全体を眺める前に読者としても一応その時代区分を考えてみた方が理解し昜いのではないかと思う。たとえば翔俳句の抒情性についてはまず発端の数章が、洒脱自在な作風については後半がよくその特色をあらわしている。こうしたものを著者の志向、生活環境の変化等から見てゆくと大まかな和紙の時代区分が浮び上って来るようである。そして、これを比較することによって案外変ることのない翔俳句と見られていたものが大きなうねりをもって動いていることにも気づくだろう。
➀ 「新人時代」(昭和23年~30年)
文字どおり、新人として、一躍馬酔木の上位を奪ったときから、能村登四郎、藤田湘子と併せて「新人三羽烏」と袮され巻頭争いに熾烈を極めた時期を経て、馬酔木の若手同人として評論、指導等多彩な俳句活動を示し始めた時期までを指す。これはまた、能村登四郎の『咀嚼音』、藤田湘子の『途上』の時代とも重なり合う時期であり、若手作家に共通したみずみずしさを秘めるとともに、その後の俳句の原点をなしている時代であった。
竹馬に土まだつかず匂ふなり (23年)
ものの芽をうるほしゐしが本降りに
富む家にとりかこまれて住めり冬 (24年)
昂然と今無為ならぬ懐手
寒苺買はずに戻り忘れ得ず (26年)
裸子よ汝も翳もつ肩の骨
末枯のけぶらふ涯を想ひ見る 27年)
冬虹よ恋へばものみな遠きこと
特に、重要なのは、これらの句が新鮮な抒情という形容の下に一つに括られかねないのだが、注意深い鑑賞者であれば年ごとに著者の新しい志向に気づくということである。初期にとりわけ顕著だった俳句的技法を踏まえた潤うような抒情性から、一転生活諷詠風に、己に執したスタイルをとり、やがて生活や家族の陰彫にふれて心象風の新しい現代俳句を確立してゆく。そこにはストイックなまでの、著者の新しさを求める姿勢がうかがえるのである。
➁ 「旅吟大作時代」(昭和30年~38年)
『合掌部落』が俳壇で社会性俳句のーつとして喧伝されていたころ、林翔はひとり、「この旅は、自己及び周囲の者のみに向けていた登四郎の眼を広く外界に向けさせたという点で意義を持つ」という卓見を述べられたことがある。社会性俳句も過去のものとなった今日、『合掌部落』が猶高い評価を得ていることを思えば、正鵠を得た言葉と言わざるをえない。しかし、面白いことには正しく同じ言葉にあてはまることが翔俳句にもあったことで、これは昭和30年発表された「北海道新秋」という特別作品であった。
これまで大きな旅行吟を発表したことのなかった著者が初めてとりくんだ大作(51句)でありその評価も高かった。謙虚な人がらと評された著者であるが、この好評を受けて以後意欲的な大作が目立つようになる。自然詠では「長野県開拓村」、「コタンの旅」、「新野の雪祭」など.また社会性俳句の影響も若干受けたと思われる千葉浦安の海苔不作といり異色の素材をあつかった「貝死なず」など、そのスヶールを格段に大きくしてゆく作品が作られていった。
聖時鐘蜻蛉ら露を啣へ飛ぶ
聖水冷えびえ室は寝るのみ祈るのみ
揣ぐや直ぐ口に泡立つ青林檎
嬰児ひとり寝せられ風のねこじやらし
冬日に干す籠に縋りて貝死なず
まき籠の長柄犇き雪を呼ぶ
③「和紙の時代」39~44年
次の時代をいつのころから始まるとするかは大分異論のあることと思うが.例えば次のような句にその兆しを見ることも出来よう。
弾き疲れの子と春月と何ささやく
「おはよう」を胸が噴き出す泉の辺
この時期、翔俳句は前二期の作風を残しつつも「秋風の和紙の軽さを身にも欲し」の句に代表される、軽やかな心が句に見え出して来た時期だったのである。勿論それを軽率に「軽み」だなどと言えないことは
橄欖を投げたき真青地中海
思はざる一歩がつよし朝ざくら
など老いて初めて判る軽みとは別な若々しさを示す句がいくらでもあることからも明らかであろう。故福永耕二はその後の句風を軽妙自在な諷詠を示す傾向と言っているが、私自身軽妙という言葉は必ずしも承服しがたいが、自由への志向を意味する「自在」とは和紙後半の作風を示すのに最もふさわしい言葉であると思う。俳句を作ろうとするはからいのない、思いがさりげなく十七字となって生まれる翔俳句の特徴をよくあらわしていると思うからである。
ひあふぎやドアの鐘振る郵便夫
白桃のかくれし疵の吾にもあり
茫洋と女体ぞ厚き大南風
穂芒やそれより白き恵那の雲
いつも人無き焼跡の整ひゆく
汗しとど写楽の目して囗をして
俸給の薄さよ落葉と舞はせたし
こうした句によって、掉尾に波郷追悼の句をすえながらも句集全巻にほのぼのとした明るさを漂わすことに成功しているのである。