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2022年10月7日金曜日

北川美美俳句全集24

面124号(二〇一九年四月一日)①

 面124号は高橋龍・山口澄子追悼号であり、発行人高橋龍がなくなったため、北川美美が集まった原稿を整理するとともに二人の追悼号を準備したものである。その後面は出ていないようであるから北川は最後の面を編集したことになる。

 面124号の作品は既に掲載したが、編集人としてこの号には山口澄子の追悼文、編集後記を載せているので転載する。


<悼山口澄子>


深窓の令嬢           北川 美美


 足掛け八年、毎夏軽井沢在住の山口澄子さんとの接触を試みた。その軽井沢詣も虚しく昨夏(二〇一八年)、山口さんの店舗近隣の方より訃報を得た。

 山口澄子さんは昭和五年生まれ。三鬼指導の「断崖」東京支部を立ち上げた主要メンバーのお一人だ。「断崖」東京支部は、東京・世田谷にある有隣病院内の結核病棟が本拠地たった。入院患者の大高弘達、大高芭瑠子、山川澄子、石野梢らが直接三鬼に指導を依頼したことがはじまりだ。そこに三鬼の依頼により指導に訪れた三橋敏雄、三鬼に魅了され「水明」を飛び出した山本紫黄が加わり面俳句の前身が生まれる。

 昭和三十七(一九六二)年二月、三鬼は清血肝炎を併発し「断崖」門下(弘達・芭瑠子、敏雄・孝子、紫黄、澄子ら)の交代制の泊まり込みの看病が続いた。その様子は山口澄子執筆の「葉山ノート」(俳句研究一九七一年四月西東三鬼特集)に詳しい。同年四月一日三鬼死去。

 翌年、「断崖」東京支部のメンバーが中心になり「面」が結成された。療養所の患者が富裕層であることは、小説、映画の中のことと思っていたが、面創刊同人は療養所入所の経済力を備え、そのような門下に三鬼は経済的にも支えられていたことが推測できる。以前、六本木ルーテル教会にて大高弘達氏実姉の原敏子様からお話しを伺ったことがあるが、大高家、山口家は軽井沢の別荘仲問でもあり療養所退所後も毎夏家族ぐるみで軽井沢に滞在することが恒例だったという。

 山口さんは一九八四(昭和五十九)年、面99号の掲載をもって俳句から遠ざかっている。

 また山口さんは昭和の時代に代官山と軽井沢に「仏蘭西館」というアンティークドール専門店を持ち、その世界での目利きとして名を知られていた。軽井沢滞在中のジョン・レノン、オノ・ヨーコが訪れる奇妙な店として、古きよき軽井沢の写真展に登場する店でもある。軽井沢に移住されたのはおそらく平成と同時のようだが、以降は南仏の古い食器を扱う店になったようだ。訃報を得た二〇一八年夏、軽井沢テニスコート通りの「仏蘭西館」のカーテンの隙問から昨夏の陳列とは異なる古食器が見えた。代官山時代の木彫の看板は掲げられたままで、店主亡き後も時に開店する様子がうかがえた。

 二〇〇七(平成十九)年、龍さんが、紫黄さんの訃報を山口さんに電話で伝えたそうだが、その時、山口さんは電話口でわあっと泣き出したそうだ。「断崖」終刊号 (面一二一号再掲)での対談、その他山囗さんのエッセイには紫黄さんがよく登場した。生前の紫黄さんが「スミコさん」と言う時は池田澄子さんのことで、「スミちゃん」という時は山口澄子さんのことだった。

 「断崖」「面」のマドンナ、そして深窓の令嬢らしく近寄り難い雰囲気のある方だと耳にする。私か龍さんと交わした最後の会話は昨夏、山口澄子さんが亡くなられたようだと伝えたことだ。龍さんの創刊同人への忠誠心は並々ならぬものがあったが、山口さんへは憧憬を抱いていた印象があった。これから軽井沢を訪れるたびに私は幻の山口澄子さんを思うだろう。

   悼

片蔭の途切れ山囗澄子死す 北川 美美


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