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2022年10月7日金曜日

澤田和弥論集成(第13回) 冷酒讃歌

冷酒讃歌

澤田和弥 

  紺地の隅に白く小さく屋号の入った暖簾。戸の横には、私の背丈ほどの笹が少しばかり植えられている。カラカラカラと戸を開けると「いらっしゃい」の声。若い夫婦が営む小料理屋。主人は短い髪に白衣姿がなんとも美しい。おかみは小柄で細おもて。着物に白の割烹着。短めの髪を後ろでまとめる。カウンター六席と小上がりに二卓。掃除は隅々まで行き届いている。今日も暑かった。ネクタイを少しゆるめ、ワイシャツのボタンを外す。冷たいおしぼりがありがたい。今日のおすすめは鰹か。明日の予定を考えると、薬味は生姜だな。鰹に生姜ならばビールというよりもここは。そう、冷酒(ひやざけ)である。キリッと冷やした日本酒。それも辛口でさらにキリッ。口中から喉へ、そして胃へ。体の中を涼風が駆け抜ける。その後を追うようにジワッと広がるぬくみ。暑いときはビールや酎ハイも当然旨いのだが、冷酒の旨さは全くもって別格である。手の込んだ店は錫の徳利と猪口を出してくれる。掌の熱が酒に伝わりにくい。「錫以外は認めねえ」などというわがままはないが、その心遣いはやはり嬉しい。

 熱燗はちびちびぐいぐい飲むものだが、冷酒は切子か金物のぐい飲みでスッと飲みたい。

  のどごしのよさよ昼利く冷し酒  大矢章朔

 そう、のどごし。キリッとしたものはスッと流したい。後味はサッと消えるが、その一瞬の妙味に酔いしれる。

 旨い酒に肴はなんとするか。「粗塩一つまみで充分」という御仁もおられよう。しかしながら山にも海にも豊かな珍味がある。あれもこれもと思うのが人というもの。

  塩鳥の歯にこたへけり冷し酒  暁台

  塩漬の小梅噛みつつ冷酒かな  徳川夢声

 やはり塩だ。じゅわじゅわと脂弾ける鶏肉に塩をさっと。山葵を添えても旨そうだ。胸肉にするか、腿肉にするか。意見のわかれるところだろう。いやいや、ささ身で。いや、ハツだ。砂肝、ぼんじり……。こんな話も冷酒を酌み交わしながら楽しみたい。小梅をカリッとさせながらというのも涼しげで心地よい。南高梅でじっくりと、というのも勿論よいが、暑いときはカリッが大切。カリッ、ね。

  冷酒や鯛の目玉をすすりつつ  寺澤慶信

 お。今度は鯛の目玉か。息つく暇もない。この鯛は焼いたのか、それとも煮つけか。前者は塩、後者は醤油である。目玉に及ぼす影響は大きい。さあ、冷酒にはどっち。正解は、どちらも絶品。目玉を嫌がる方も多いが、あのどろりとした目玉はこよなく旨い。じゅるじゅると啜ったところに、間髪入れず冷酒をクイッ。スッと流して、ふうと一息。たまらなく美味。

 旨い酒が入ったと冷やして友の家へ。早速飲もうという話になるが、さて肴は。鶏や鯛がいつでもある訳ではない。

  冷酒や蟹はなけれど烏賊裂かん  角川源義

 蟹なんて、そんなそんな。烏賊、スルメね。充分、充分。そのもてなしの気持ちで充分。さあ、グイッとやるか。

 酒というと蕎麦食いが黙っちゃいない。江戸の世で昼から酒が飲める処、それが蕎麦屋。かの文豪も行きつけの蕎麦屋に行くと、まず酒二合で口中を濡らす。そして、もり一枚。酒と蕎麦は切っても切れない間柄。

  蕎麦好きに匂ふ飛騨そば冷し酒  秋元不死男

 蕎麦の香り。それも飛騨の山地に育った蕎麦。店にはこだわらない。田舎の小店で充分。旨い酒に旨い蕎麦。酒の香りと蕎麦の香り。他に何が必要か。少しばかりのお金とゆるりとした時間だけではなかろうか。

  樽冷酒つけたしに蕎麦すすりけり  石川桂郎

 こちらは酒がメイン。樽の香りが心地良い。「つけたし」では蕎麦がかわいそうだが、それほどに酒が旨いということ。勿論、蕎麦も旨い。そうとはわかっていても、ついつい酒にばかりいってしまうのが酒飲みの悲しい、いや。快い性(さが)というもの。

 最初の勢いでクイクイいってしまったが、不思議と酔いが回っていない。まだまだいけるぞ。いやいや。ご注意を。親の説教と冷酒は後になって効いてくると昔から言う。古来より多くの人々が痛い目に遭ったに違いない。

  ひとごこちゆつくりきたり冷し酒  鈴木太郎

 ゆっくりゆっくりと来る酔いを楽しみながら、コントロールできれば一人前の酒飲み。しかし私の周囲には「一人前の酒飲み」がいない。かく言う私も、そう、ついつい。

  うかうかと過ごせし酔や冷し酒  青木月斗

 いやはや。酔いが過ぎれば、軽口の一つも叩きたくなる。しかしそれが落とし穴。面倒なことになるのが相場というもの。

  冷酒飲み君が代・日の丸激論す  有馬ひろこ

  冷し酒ついには死者も謗らるる  能村登四郎

 酒の席では政治、思想、宗教の話は禁物。たいがい口論を招く。他人様への文句も出るが「死人に口なし」。死人を悪く言うのは不粋そのもの。

  おほかたは世間話よ冷し酒  荒川沙羅

 そうそう。身の丈に合う世間話がちょうどよい。

  冷し酒男は粋をめざしけり  前野雅生

 酒を飲んでいるときは粋でありたい。冷酒となると特に。日常は不粋になることもしばしば。でも、このひとときだけは。とはいうものの、無理に粋がるのは滑稽そのもの。粋がる前に考えなきゃいけないこともいろいろあるし。

  冷し酒世に躓きし膝撫ぜて  小林康治

  冷し酒喉におとして意を決す  仙田洋子

 振り返ってみると、世間というヤツにどうも躓いちまったな。己れの膝を撫ぜる姿には粋でなくとも、男の哀愁を充分に感じる。冷酒をグッと呷って胃におさめ「いざ」と意を決する。堀部安兵衛の高田馬場の決戦を思い出させる。粋という以前に、心がある。

  冷酒やはしりの下の石だたみ  其角

  青笹の一片沈む冷し酒  綾部仁喜

 冷酒を酌む。流しの下の濡れた石畳はなんとも情緒がある。そのような造りのところで飲む酒はまた格別だろう。冷酒に沈めた青笹の青はすこぶる美しい。古伊万里の青、ヒロシゲ・ブルー。「青」と呼ぶ色は涼やかですっと心に響いてくる。それを引き立たせるためには酒器は白がいい。とろりとした白ではなく、キリリとした白。これらには「粋」という言葉が頭に浮かぶ。この状況で粋になれない方は別の道を探すべきであろう。私はすでに別の道にいる。外見、内面合わせ、私に粋は無理。肩の力を抜いて、じっくり旨く、楽しく飲むのが第一である。とはいえ「粋だねえ」と自己陶酔したことは何度もあるが。

  鬼招んで企み為さむ冷し酒  藤田湘子

 句の中から「ガハハハ」と大きな笑い声が聞こえてくる。鬼と企むほどの大胆さ。笑いのない酒はやはり旨くない。

  山中の木々の匂へる冷し酒  大木あまり

  山国やひとりに余る冷し酒  舘岡沙緻

 山々の木々香るなかでの冷酒がなんとも旨そうだ。だが、ひとりで飲むにはちょっと多い。里の人が「どうぞ、どうぞ。召し上がって」と出してくれたものの、この量は。誰か一緒であれば残さずにすむのに。ひとりの酒は何かと不便。

  冷酒やつくねんとして酔ひにけり  石塚友二

 酒と語り合えれば、一人でも一人ではない。しかし酔いが回ってきたときにふと「独り」を感じてしまう。そうすると、なんとも味気ない。変な醒め方をしてしまう。一人酒の情緒も捨てがたいが、にぎやかなのがうらやましくなる。

  冷し酒旅人我をうらやまん  白雄

 イジワル~。本人も旅人も一人。旅人は汗を拭いつつ、午後の旅程がまだある。その隣で昼から悠々と冷酒。視線を感じる。うらやましがっているだろうなあ。意地は悪いが、こういう酒も確かに旨い。私の臍は曲がりに曲がっているが、腹の肉に埋もれて周囲にばれずにすんでいる。腹の肉にもそれなりの利点がある。

  おねえちゃん次は冷酒にしてんか  稲畑廣太郎

 酔っている。これは、確実に酔っている。そして一人ではない。たとえ一人だとしても、店員をみな知っているような、行きつけだろう。すでに生ビールを何杯も空けている。そろそろ酒をかえようか。酒。そうか。冷酒か。ちょいちょい、おねえちゃん。それにしてもこの「おねえちゃん」。「おねえさん」だと、おねえさん+α歳の女性を想像するが、「おねえちゃん」だと、まさにおねえちゃんをイメージするから不思議だ。セクハラではない。素朴な偏見である。

 なにか形勢不利なことを書いてしまった。話をはぐらかそう。

  酒冷す清水に近く小店あり  正岡子規

 一升瓶をどかと清水に冷やしている。近くに小店がある。きっと此処の酒だろう。以前、ある神社の直会(なおらい)で一升瓶ごと湯に浸し、熱燗をつけているのを目にしたが、清水で冷やすのもまた旨そうだ。酒の旨さに自然を滲ませた極上の一杯。その一杯を近くの小店で味わいつつ、そこの娘さんとお近づきになれれば、こんな贅沢はない。

 体に涼風を駆け抜けさせたくなってきた。冷酒が私を呼んでいる。実は今、冷蔵庫に地酒の四合瓶が冷やしてある。手の届きにくい奥の方に入っている。私対策のためではない。キリッと冷えたその一瓶は旨いこと間違いない。日は出ているが、そのうち沈む。ぐい飲みか、コップか、湯呑みか。もう、飲むことに意を決した。もしくは、胃を決した。いざ。とはいえ、ひとりは淋しい。一緒に飲んでくれる、もしくはお酌なんてしてくださる方はいないだろうか。花に嵐のたとえをあるさ、冷酒だけが人生だ。

  浮世絵を出よ冷し酒注ぎに来よ  小澤實

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