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2022年3月11日金曜日

澤田和弥論集成14(第7回) 澤田和弥は復活した  津久井紀代

 一年前の『天晴』夏号で澤田和弥追悼特集を組んだところ大きな反響があった。これは五月修司忌に合わせたものである。修司の忌は即ち澤田和弥の忌日でもあった。『豈』代表筑紫磐井に稿を依頼したところ「澤田和弥は復活する」と題して澤田論を展開してくれた。それ以前から澤田和弥のただ一つの句集である『革命前夜』を評価していたことを知っていたからである。『天晴』夏号の発刊が六月十日。そのあと筑紫は「俳壇」六月号、「俳句四季」六月号とつぎつぎと澤田に触れ、この一年さまざまなところで澤田論を展開してきた。また自らのブログに「澤田和弥論集成」として、十三回にわたって澤田和弥論を展開した。直近では二〇二〇年一月十四日「連載 澤田和弥」(第六回―七)において『若狭』に連載された「俳句実験室 寺山修司」に触れ、「澤田の最後の思い出は寺山にあった」という論を展開。澤田の連載は四回で終わったこと、体調を崩し、文章を書く気力は蘇らなかったようだ、と結論づけている。『若狭』に掲載された最後の作品として、

 冴返るほどに逢ひたくなりにけり

 菜の花のひかりは雨となりにけり

 白梅を抱え諦めている瞼かな

があげられている。この作の数か月あと澤田は自決した。ここには人間としての自分を放棄し、諦めだけが記されている。

 特記すべきは革命前夜のあとがきである。「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」と言った言葉をもとに筑紫はつぎのように分析している。

 「これ」以後の澤田和弥 ― 新しい「これ」も我々は完璧に語ることが出来る。なぜならば新しい「これ」以後もう作品を作ることがないからだ、と結論づける。つまり澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになったのである。

 筑紫が『天晴』の紙面で、「澤田和弥は復活する」と宣言して一年。筑紫磐井は見事に伝説の人として澤田和弥を復活させたのである。

 澤田和弥が俳壇で知られるようになったのは第一句集『革命前夜』を上梓してからだ。師である有馬朗人は「新風を引きおこす」という言葉を使って期待は大であったがそれは見事に裏切られた。

 私は筑紫が「連載澤田和弥論集成」のなかでおもしろいことを言っていることに注目した。『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う、と言っていることだ。全く同感なのだ。

 澤田は中学生の頃、自宅のテレビから流れる寺山修司特集に大きく衝撃を受けた。修司の「とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩」に衝撃を受けたのである。澤田は「中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない」と述べている。澤田は「革命が死語となりゆく修司の忌」と詠んだ。澤田は修司に憧れ修司にならんと必死でもがいたが革命という言葉は澤田にとって死語になったのである。

 先に述べた筑紫の言葉に戻ろう。筑紫の言う「革命ごっこ」という言葉が身に沁みるのである。なぜならば澤田は「雪割や死にたき人がここにもゐる」と述べ、「春昼は春の昼なり嗚呼死にたし」といい、「生きるはずもなきわたしが蟻の中」「こほろぎ鳴け此岸はつまらなたった」と述べ、自らを「生くる子が首吊る子へとなりし冬」と記している。私は筑紫に「革命ごっこ」と言わしめたのは澤田の生き方が「甘え」に起因しているからだと考える。澤田は文学においても「死」という言葉は散見するが「生きる」という言葉は見当たらない。澤田にはいじめられても挫折しても常に帰る場所があったということでないだろうか澤田自身平成三年九月号『天為』において、家は良い意味でも悪い意味でも守られ場所であった」と言い、家の外は戦場あった」と述べている。澤田の死はいじめられっ子だったからではない、生きることへの「甘え」が澤田を死に至らしめた要因であると結論付けたい。

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