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2022年3月11日金曜日

第45回現代俳句講座質疑(7)

第45回現代俳句講座「季語は生きている」筑紫磐井講師/

11月20日(土)ゆいの森あらかわ


【赤野氏質問】帚木に影といふものありにけり」(虚子)について

 「題詠」によって生まれた名句の代表としての揚句ですが、山本健吉の評ははっきりいってよくわかりません。

 『帚木は「影といふものありにけり」といった具合に立っているものなのである』(山本健吉『挨拶と滑稽』)といわれても、今の目からみればなんのこっちゃでしかなく、現代の批評としては通用しないでしょう。

 かといって健吉にセンスがないのかというとそうでもなく、偶然か意図的かはわかりませんが、掲句は「視覚詩」として非常に効果的に出来ているのです。

 会場の質疑で少し述べましたが、この句は横書きでは魅力が出ません。縦書きでこそ現れる効果があるのです。

 まず「帚木」はそれ自体、木の形状をよく表した図形として機能しています。そして、無意味な引き伸ばしに見える「といふものありにけり」は地に長く落ちた木の影を視覚的に錯覚させる効果があるのです。つまり、語の意味と視覚が合一したことにより、強い説得力を生んでいるのが揚句の魅力といってよいでしょう。山本健吉はこういった魅力は感じていたが、実作経験が乏しかったこともあって言語化できなかったため、あのようなよくわからない評となったのではないでしょうか。

 同様の効果は夜半の「滝の上に水現れて落ちにけり」についてもいうことができると思います。

 句の構造による視覚効果はこれまであまり取りざたされてきませんでしたが、佳句名句と呼ばれるものの中に駆使されている例は少なくないと考えています。無論、構造がすべてという話ではなく、要素としてということです。


【筑紫】

 ご説にある程度共感いたします。健吉はいいセンスでこの句を取り上げているのですが、説明はあまり俳句の本質を理解が出来ていないのではないかと思います。実作が欠如しており、頭倒れしているように思います。ただこの句を取り上げた功績は大きいです。

 そもそも健吉は、名著と言われる『現代俳句』を執筆するにあたって、その冒頭に虚子を置いています。そしてその虚子の項目の冒頭に「箒木」の句を置き、他のどの作家、どの句よりもたくさんの紙面を使って鑑賞しています。それくらい大好きだったのです、論理ではないでしょう。その後『現代俳句』改訂版を作るときに、スコープを近代全体とするために、子規と漱石を加えています。これが、我々が今読むことのできる『現代俳句』です。健吉にとっては現代俳句とは、虚子であり、「箒木」の句であったわけです。

 健吉と言えば人間探求派座談会が有名ですが、この座談会を読むと健吉が人間探求派をプロデュースしたという説は納得できません。ここでは草田男が暴走して延々と議論を展開し、楸邨が丁々発止とやりあい(ここのやり取りは面白いです。「あなたの言うことはよくわかります」と言って、相手の言うことを全然聞かず、自分の論理を押し付けてきますから)、当時古典派・韻律派に転向中であった波郷は沈黙を守っています。健吉は二人のやり取りに口をはさむこともできずにいます。健吉が言った言葉は、これは「人間の探究(ママ)」ですね、というぐらい。まあジャーナリストらしいネーミング感覚は持っていましたが。だから健吉は人間探求派を作るつもりなどなく、草田男・楸邨に引きずられてしまったようです。健吉が人間探求派をプロデュースしたというなら、その後の編集ぶりからみて聖戦俳句や従軍俳句もプロデュースし、大いに戦意高揚を図ったと言わなければならないでしょう。

 むしろ健吉は、編集時代の後半において古典俳句の特集を組むようになり、戦後の「挨拶と滑稽」(ほとんど芭蕉論と言ってよいでしょう)につながる能力を磨いてゆくようになります。

 「帚木」の句の虚子の創造プロセスは、赤羽根さんにお答えした第5回に引用した通りです。「俳句」1月号の座談会で、こうしたプロセスをたどることは作者の論理であって、どう読めるかとは別だ、と高柳氏に批判されましたが、虚子の創造プロセスを見てはいけないとしたらおかしなことです。色々な読みの中に、虚子の創造プロセスもあることは否めないからです。

 それから、現代において何が必要かと言ったら、「読み」か「作る自分」が大事かという二者択一はあまり適切ではないように思います。ただ私自身にとっては、俳句無風時代の現代にあってはむしろ「作る自分」の優先度が高いように思います。人間探求派も新興俳句も、造型俳句も何を作るかを真摯に考えていたから、あまり問題は変わらないわけです。

 のみならず、虚子の創造プロセスを知ることによって題詠法の名句創造の秘密が明らかになるように思います。これは従来の字句解釈法では決してできない発見だと思います。

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 「横書きの魅力」はこの句に関してはよくわかりません。「一月の川」の句は間違いなく縦書きである必要がありますが(縦書きにより魅力が増すという意味で。すべての構成する字句が鏡文字ですから)、「箒木」の句はそこまで明白な魅力が感じられません。これは99%横書きで俳句を書いている私との感覚のずれかもしれません。

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