二年ほど前から亜流里の句会に参加させていただいている。
伝統俳句から出発した私にも、中村さんの俳句は手強いながら、とても惹きつけられる詩情があり、この「紅の挽歌」を私なりに読んでいきたいと思う。
全体として、心をぐっと掴まれる句と、人を食ったような句、眩しさを遮断し醒めた目で詠んだ句。人生に立ちはだかる句、虚無感を飼いならそうとする意思。絶望に近くいる人が再生していく時間。そういうものが込められていた句集だった。
私が最初に衝撃を受けた句。
余命だとおととい来やがれ新走
おととい来やがれと啖呵を切っているが、しかしこの句は祈りなのである。不幸を寄せつけまいと、近づいてくる死に向かい立ち塞がる。夫としての気概と愛を感じさせる。人は魔を祓う時に酒を用いる。自分自身が新走を飲み、死の気配に立ち塞がり祓わんとする。新走の威を借り結界を作るのだ。立ち塞がる作者の深い祈りが、乱暴な怒りとも言える啖呵に隠されて、悲しみの深さを伝えるのである。
始まりの衝撃はあまりに痛ましく、冷徹にその情景を伝えるが、
詠んだすぐ後から、傷口から滴るものが読み手を巻き込んでいく。
さくらさくら造影剤の全身に
白息を見続けている告知かな
モルヒネの注入ボタン水の秋
葬りし人の布団を今日も敷く
句集の中に散りばめられる死生感。
重く沈み、虚無感が漂う。しかしながらその虚無感を飼いならそうとする生への意思。
あちら側とこちら側。
揺れ動く地点。時間と色彩と季節を超えていく句を追ってみたい。
早逝の残像として熱帯魚
儚い命がひらひらと輝く。中村さんは命の儚さを鮮やかな色彩の熱帯魚の姿に思う。こんなにも赤く青くいきいきと泳ぐ熱帯魚たち。
命はさまざまな明るい色を纏い、作者の目を射る。思い出のいきいきとした欠片たちが早逝の妻の残像となり、水の中を揺蕩う。
春の昼妻のかたちの妻といる
亡き人の香水廃盤となりぬ
時間は過ぎていく。作者は花野に立つ時にゼロの地点に帰るようだ。
花野はいつも、時空を超えて死のイメージと共に、再生への入り口でもあるようだ。どちらへ進むのか、問い続けるのだ。
どこまでが花野どこからが父親
存在を組み立て直す大花野
箱寿司の隙間に夏野広がりぬ
百合折らん死ぬのはたった一度きり
死の匂いがあるが、方向は生へと向かう。
ゼロからプラス 1へ。
少しはぐらかされたような句もある中、自然の中で、透き通るような視線を持つ句にも注目したい。
順々に草起きて蛇運びゆく
蛇は滑るように草の上をゆく。この写生は視点を逆転させている。
草起きてと擬人化して、神を祀るごとくしずしずと草たちが意思を持って蛇を運んでゆくのだ。草が起き上がり運ぶ蛇は、神格化され神々しい。主語を草に変えて揺るぎない目で蛇の動きを捉え、自然への畏敬を感じさせる一句と言える。
冬すみれ死にたくなったらロイヤルホスト
一人でいる一人。
大勢の人中の一人。
前者は音の無い世界。
後者は人が生きて喋って食べ物を咀嚼する音が聞こえる世界。
誰一人知る人がいなかったとしても、生きて音を立てて動く人がいる空間で、ふと死にたくなった自分を繋ぎ留めることができるのだ。
友達でも、まして知り合いでもなかったとしても、人は人に力をもらい助けられる瞬間がある。
冬すみれのように凛と、小さくても生きている鮮やかな意思がある。
作者はそんなふうにロイヤルホストの小さな一角に席を得て、この一日を生きる。
全体を通して絶望を俳句というものは救う力があるのか、と思いながら読んだ。救うのかどうかわからないが、刻まれた命は、白いページに色彩を残し、日を重ねていくと、いつか抗っていても、明るい日の色を見てしまう自分がいるのだ。
冬の日を丸めて母の背に入れる
銭湯に手書きの星取表立夏
ポケットに妻の骨あり春の虹
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