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2021年6月25日金曜日

【連載】澤田和弥論集成(第1回)

はじめに

  没後6年、35歳で亡くなった澤田和弥がひそかにブームになっている。

 火付け役は「天為」同人であり、「天晴」発行人の津久井紀代である。津久井は「天為」で最初に(亡くなった)澤田論を書いており、いままた「天晴」2号(6月号)で「澤田和弥追悼」の特集を組んでいる。


目次

『革命前夜』より 杉美春(抄出)

筑紫磐井「澤田和弥は復活する」

杉美春「「のいず」の頃」

渡部有紀子「言えばよかった言葉」

兵頭恵「澤田和弥さんのこと」

米田清文「澤田和弥の思い出」

江原文「俳人澤田和弥の孤独」


 この特集を契機に、声高ではないが澤田和弥が再び語られ始めているようだ。

 第1句集『革命前夜』(平成25年)刊行直後よりは、亡くなった今の方が澤田について語られるべき内容が増えてきた。それは若い人々が生きづらくなっている現在だからこそ、澤田に共感できる環境ができてきたと言えるかもしれない。

 「俳句新空間」では既発表の澤田論をいくつかまとめて澤田を考える場としてみたい。多くは転載記事であるが、こうしたものは分散していてもなかなか価値がわからず、その気になった時に読めてこそ価値があると思うからである。


(1)澤田和弥の最後とはじまり

                    筑紫磐井


 「狩」の同人遠藤若狭男が27年(2015年)1月に俳句月刊雑誌「若狭」を創刊している。遠藤は、若狭、つまり福井県の出身の人で、早稲田大学を出て学校の教師をしていたが、若くから詩や小説など多角的な活動をしていた。同じ早稲田の先輩である寺山修司の心酔者でもあった。

 ところでこの「若狭」に澤田和弥は創刊同人として参加しているのである。遠藤が、早稲田の先輩であり澤田が大学院在学中に所属した早大俳研の指導顧問であり、寺山への共感者ということが澤田参加の大きな動機となったのであろう。「若狭」へは、遠藤との個人的つながりだけで入会したのではないかと思う。従って入会の経緯はこの二人しか知らない。しかも、入会の年に澤田はなくなっているから、俳句の発表も僅かである。1~4月号と6~7月号であり、7月号で逝去が告知されている。

 特筆すべきは1~4月号まで澤田は「俳句実験室 寺山修司」(1頁)を連載していることである。むしろこの文章を執筆するために「若狭」に入会したと言ってもよいかも知れない。継続した澤田の文章としての最後のものと言うべきであった。やはり澤田の最後の思いは寺山にあったというべきであろう。

 この間の事情を知りたいと思ったが、何と言うべきであろう、遠藤若狭男自身は30年(2018年)12月に亡くなり、「若狭」も廃刊されてしまったから、伺う手がかりもない。ほとんど時期を一緒にして亡くなった師弟は寺山つながりだけで我々のもとに「若狭」という資料が残っているのだ。

 「俳句実験室 寺山修司」は寺山の一句鑑賞であるが、

豚と詩人おのれさみしき笑ひ初め 寺山修司(29年)

目つむりて雪崩聞きおり告白以後(30年)

十五歳抱かれて花粉吹き散らす(50年)

父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し(48年)

など僅かこの4句を鑑賞し、「俳句実験室 寺山修司 第四幕」は終了している。翌五月号では編集後記で遠藤は「好評を博している「俳句実験室 寺山修司」の著者である澤田和弥氏が体調を崩されてやむなく休載となりました。一日も早い回復を願っています。」と告知している。俳句も五月に欠詠し、六月に復詠している。文書を書く気力は蘇らなかったようである。7月に最後の俳句作品(七句)が載せられている。


冴返るほどに逢ひたくなりにけり  澤田和弥

菜の花のひかりは雨となりにけり

白梅を抱き締めている瞼かな


 「若狭」三月号では寺山の「十五歳抱かれて」の句を取り上げて鑑賞している。高校時代の作品として掲げられる『花粉航海』が実は四〇歳を過ぎてからの作品(つまり「新作」)を多く載せていることが巷間知られているが、それでも澤田はこの句を寺山の「未刊行」の句ではないかと推測する。それは十五歳という年齢が寺山の創作活動のスタートに当たるからだ。真実は寺山本人しか知らないが、そのように読み解く澤田の心理は分からなくはない。

 そしてこの鑑賞を読むと、澤田の「白梅」の句と構造が似ていることに気付く。澤田のこの最後の句を寺山に重ね合わせると、澤田の俳句人生のスタートとも見えてくるのだ。

澤田の『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う。それはしかし寺山にも似てはいなくはない。革命よりは革命ごっこの方が一般大衆には分かり易いのだ。革命前の露西亜のプーシキンは、革命と革命ごっこを行きつ戻りつした。革命史『プガチョーフ反乱史』と革命期の恋愛小説『大尉の娘』を同時並行して執筆した。『プガチョーフ反乱史』(この書名はロシア皇帝ニコライ一世の命名になるという)は革命家にとっての教科書となった、しかし一般大衆に愛されたのは『大尉の娘』だった。

      *

 澤田から生前、句稿が送られてきている。『革命前夜』(2013年邑書林刊)収録の後、角川俳句賞に応募して落選した「還る」(2011年)「草原の映写機」(2013年)「ふらんど」(2014年)、第4回芝不器男俳句新人賞に応募した無題の100句である。『革命前夜』後の澤田和弥を語るのに決して少ない量ではない。『革命前夜』で「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」といった、「これ」以後の澤田和弥――新しい「これ」を我々は語ることが出来る。我々自身について、我々は語ることが出来ない。なぜなら我々が提示する、「これ」が全てではないからだ。しかし我々は今や安心して澤田和弥を語ることが出来る。「これ」以外に澤田和弥はないからだ。ようやく澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになっているのである。


『革命前夜』より(順不同)


冬夕焼燃え尽きぬまま消え去りぬ

言霊のわいわい騒ぐ賀状かな

マフラーは明るく生きるために巻く

生前のままの姿に蝿たかる

地より手のあまた生えたる大暑かな

黄落や千変万化して故郷

冬の夜の玉座のごとき女医の椅子

革命が死語となりゆく修司の忌

シスレーの点の一つも余寒かな

接吻しつつ春の雷聞きにけり

短夜のチェコの童話に斧ひとつ

幽霊とおぼしきものに麦茶出す

母も子も眠りの中の星祭

終戦を残暑の蝉が急かすなり

香水を変へて教師の休暇明

金秋や蝶の過ぎゆく膝頭

狐火は泉鏡花も吐きしとか

恋猫の声に負けざる声を出す

空缶に空きたる分の春愁

卒業や壁は画鋲の跡ばかり

伽羅蕗や豊胸手術でもするか

外套よ何も言はずに逝くんじやねえ

椿拾ふ死を想ふこと多き夜は

若葉風死もまた文学でありぬ

半島に銃声響き冴返る

拘置所の壁高々と雪の果

薄氷や飛天降り立つ塔の上

鳥雲に盤整然とチェスの駒

船長の遺品は義眼修司の忌

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