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2020年10月30日金曜日

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】4 時空を超えたドラマツルギー  山本敏倖

 眞矢ひろみ氏とは「豈」、「俳句新空間」、「皐月句会」の繫がりで面識はない。
 ただジャズ好きで、ジョン・コルトレーンファンということで、不思議なご縁を感じた。
想えばかの摂津幸彦もかなりのジャズファンだったと聞く。

 句集『箱庭の夜』は、氏が俳句に興味を抱いてより三十年近くを経て、満を持して
の第一句集である。
 句集名は句集中の

  箱庭に息吹き居れば初雪来
  大袈裟なことばかり箱庭の夜

 からとったと思われるが、箱庭については帯文で「・・・・江戸後期に流行し夏の季語でもある〈箱庭〉のような仮想空間の類ではなく、むしろ現代 ユング派の心理療法に使われる〈箱庭〉の機能そのものに近い・・・・。」との表記がある。つまり単なる季語ではなく、言葉としてその属性部分からのイメージを掬い取って欲しいとのことだろう。

 また章立ては、ジョン・コルトレーンの最高傑作と言われているアルバム「至上の愛」を
参考にしたらしい。
①    認知  ② 決意  ③追求  ④賛美
の四章からなっており、これはかのドラマツルギーを心得た、起承転結の構成法と読み取れる。
 
 まずは巻頭と巻軸の句

  指切りをしたい今宵のいぬふぐり
  水音の言葉となりぬ初寝覚


 果実の形が犬のふぐりに似ていることから付けられたいぬふぐりが、春の宵、おそらく風にでも揺れたのだろう、指切りをしたい気分にさせた。初寝から覚めたときかすかな水音が言葉となって届いた。日常の中から詩的瞬間を抽出。季語とのコラボにより二句ともそれぞれの詩的深度を確立している。

  各章から四句ずつ恣意に曳く。

① 認知
   屈折光掬えば海月かたち成す
   木下闇まず鎖骨から出でにけり
   鳥葬の骨砕くるも秋の声
   私などいない気がする冬の航


 まっすぐな太陽光なのだが、自身の内面の何かが反映したのだろう屈折光に見えた。その光を水面の水ごと掬えば、水面下のぼんやりとしていた海月がはっきりとした形を現した。光と影により存在を浮き彫りにする一寸景。
 木下闇があり、そこから出るときまず鎖骨から出る自分がいた。色彩感をベースにした自身の行動認識。
 鳥葬で残った骨を砕いたにもかかわらず、どこからか秋の声した。五感の感触から発する秋のイメージ。
 寒さの厳しい冬の航路、そこにいるのだがいない気がしてしまう私。自身の喪失感。
 屈折光と海月、木下闇と鎖骨、鳥葬と秋の声、私と冬の航、いずれも意外な配合からなる自身の存在に対する不安感の認知により、詩情を稀有なものにしている。
  
②     決意
魂におかえりなさい梅真白
花透くや母胎の中のうすあかり
半円の冬の銀河を行かんとす
風花にゐる産道をゆく如く


 無垢な魂におかえりなさいと、おそらくこの世のすべての汚れに対してだろう呼びかけている。傍らにはその純真さを象徴するように真っ白な梅が。背景のメッセージ性を白梅の香りと共に漂わせていて巧み。
 満開の桜が光の加減で透くように見えた時、母胎の中で意識したであろううすあかりを感応した。胎内回帰のイメージが広がる。
 秋とは異なる情趣と語感の有る冬の銀河。その半円の姿を仰ぎ、その冬銀河の道を行こうとしている。冬銀河への探求心と詩的決心。
 風花の中にゐる。まるで母の胎内から出てくる時の産道を通過している気分で。
 どの句も特殊な情景を作者独自の感性で再構築しており、作者自身の方位と決意が表白されている。

③     追求
身の奥の青き焔といふ余寒
形代の大楠に倚る白日傘
在ることのはかなき重さ遠花火
頻伽聞く土星を過ぎしあたりより


 自身の身体の奥にチロチロと燃える青き焔に余寒を感受する、特異な感性。
身代わりとしてあるいは神霊の代わりとしてある形代のような大楠に倚りかかる白日傘。まるで何かを聞き出そうとするように。大楠の精霊への敬慕。
 遠く一瞬にして咲き消える遠花火。そこに自身を含めた存在することへの、はかない重さを実感している。遠花火の開く瞬間のひたむきな美への探究心。
 頻伽は迦陵頻伽の略。仏教で雪山または極楽にいて、美妙な声で鳴くという想像上の鳥。その想像上の鳥の声が、土星(別名サターン)を過ぎしあたりより聞こえたという、まったくのイメージ上の二物の存在を配合し、次なる造型美を読み手に想像させようとしている一句。
 追求のテーマをそれぞれの形で表白。他の句を含め、しっかりとした具象的なイメージにより、その存在の詩的追求をしている。

④    賛美
瑠璃天は御霊に狭し揚雲雀
虚子の忌や百鬼夜行の美しきこと
月守にならぬかといふオムライス
仮の世のゐるといふこと寒椿


 瑠璃色のガラスのような空は御霊にとっては狭いと思われるのだが、それを打ち破るかのように雲雀が揚がる。御霊の存在への一寸感。
 かの高浜虚子の忌に、たまたま垣間見たであろう百鬼夜行が美しく感覚された。百鬼夜行への逆転の審美眼。虚子との取り合わせにより、大いなるアイロニーを感受。
 花守でなく月守にならぬかというオムライス。オムライスの色彩と月の有り様が、幾分の滑稽感をもって絵画的。
 寒中の真っ只中に懸命に咲く寒椿。しかしここは仮の世と見、そこにゐると考えることで、その寒々とした生き様もまた一興と見る。
 章のラストは、起承転結の結として表面的には、懐疑性を打破し、逆説的美学、軽い滑稽感やこの世を俯瞰しながらも、一句一句の空間を賞賛賛美し、普遍的領域への足掛かりにしている。

 また句集中の特異な存在として、すべてが漢字の一句。

純日本風虐殺命令油月

 水蒸気により月の周囲が油を流したように見える季語油月の斡旋が絶妙。その作用により上五、中七の措辞が、虐殺の歴史と気分のイメージからなる絵巻を展開させ、油月との絡みでその在り様を追求している。

 追悼句としてかの金子兜太への一句。

「やあ失敬」と朧月夜を後にせり   

 兜太の人間性と存在感が凝縮されており、山本健吉の云う、「挨拶」「滑稽」「即興」の 「挨拶」を実践している。

 そして句集中最も不思議な存在として、戦艦大和の句、三句がある。

           戦艦大和 四月七日出撃
菊水を舷に涼月添ひにけり    (第二章)
           戦艦大和 豊後水道通過
左舷より菊の御紋にわたくし風   (第三章)
           戦艦大和 鹿児島沖轟沈
水底の黄泉平坂月を待つ     (第三章)


 なぜここで戦艦大和の三句なのか今一ピンとこなかったが、出撃、通過、轟沈の前書きから起承転結ではなく、日本の能や人形浄瑠璃などで使われる序破急の構成法が浮上し、戦艦大和の悲劇を再現することで、歴史的事実からの、②決意、③追求のテーマを含んだドラマツルギ―を感応した。

 句集全体を通して大きく俯瞰して見るに、作者はどうやらイメージとして中有(衆生が死んで次の生を受けるまでの間。期間は日本では四十九日)に立って作句しているように感覚される。むろん例外句はあるが、多くは中有から現世と魂魄の両方の世界を注視し対比させ、そこに人間存在の意味を探り出そうとしている気がしてならない。つまりそこが現時点における、作者眞矢ひろみ氏にとっての箱庭なのである。

 本句集は眞矢ひろみ氏の、俳句に触れてから約三十年近くの珠玉の集大成であり、ジョン・コルトレーンのアルバムからの構成法に乗っ取った、時空を超えたドラマツルギ―を俳句形式を通じて表白した稀少な一巻と言えよう。これを基にさらなるひろみワールドの飛躍を期待してやまない。

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