なつはづきさんの第一句集、『ぴったりの箱』を拝読しました。なつさんは第36回現代俳句新人賞受賞、「豈」に参加、「朱夏句会」代表もされています。タイトルの『ぴったりの箱』は集中の一句『ぴったりの箱が見つかる麦の秋』より。
一読では何かを片付けるのにちょうどいい入れ物があった、かのように読めますが、表紙の「箱」のイラストをみるとポップでありながら、安部公房的なニュアンスをも見て取れます。まずは共鳴句を二十句挙げてみます。
からすうり鍵かからなくなった胸
桜二分ふと紙で切る指の腹
夜に飲む水の甘さよ藍浴衣
蟻の群れわたしは羽根を捥ぐ係
少女期の果ててメロンのひと掬い
地に刺さる喪服の群れよ油照り
ゲルニカや水中花にも来る明日
立秋や猫背のような手紙来る
中古屋に天使の羽がある良夜
鶺鴒やひだまりがまず午後になる
日向ぼこ世界を愛せない鳩と
実印を作る雪女を辞める
幻の鮫と寝相の悪い君
春鹿の顔して単語帳捲る
穴馬がおーーーーっと茅花流しかな
昨日から革命中のなめくじり
かなかなや痣は気付いてより痛む
図書館は鯨を待っている呼吸
福島やプールを叩く硬き雨
白兎黒兎いて夜の嵩
句集末には俳人、宮崎斗士の跋文が収められています。ここで宮崎は「身体感覚」「からだ」をはづき俳句のキーワードとして挙げており、揚句をみても的確な指摘だと思います。
ただ一口に身体感覚といってもいろいろあり、例えば金子兜太の「いきもの感覚」もそうですし、「21世紀俳句パースペクティブ」では阿部完市俳句の身体性として韻律を挙げる議論がされていました。
はづき俳句における身体性とはなにか。本句集について私が感じたのは、「痛み」「喪失感」「居場所」ということです。
単に身体の語彙を使う、また肉体を描写するということではなく、心象あるいは喩としての身体、痛みや喪失感を感じる主体としての身体、置き所や居場所を探し求める自己としての身体、なつはづき俳句における身体性とはこのような表現手法として成立しているように思います。
この身体性に関しては多くの論者が触れるところだと思いますので、それ以外の引き出しをあけて見ましょう。
ゲルニカや水中花にも来る明日
ここでの水中花は謎を含んでいます。多くの場合、水中花は生と死の境界、どちらかといえば死に近い存在として表れますが、ここではその水中花に明日が来る。ゲルニカでの圧倒的な破壊との対比か、死者も死者として存在することの喩でしょうか。
白兎黒兎いて夜の嵩
どちらかといえば、昼より夜に近づく性向があるようにみえます。モノクロームに深まる夜の世界に、やはり色彩のない白兎と黒兎。しかしここにはむしろ安らぎがあるようです。同じく
夜に飲む水の甘さよ藍浴衣
もまた夜の甘さを洒脱に描いています。
穴馬がおーーーーっと茅花流しかな
静謐な世界だけではありません。競走馬の熱狂的な一場面、風になびく鬣と柔らかな茅花流しの映像的交感。寺山修司も競馬に凝っていたそうですが、こういった祝祭空間の表現にもまだまだ可能性があるのではないでしょうか。
新宿で毎月行われているなつさん主催の朱夏句会。現在は新型コロナのため主にネット開催になっています。私もちょくちょく参加させて頂いていますが、超結社の自由な句会です。無季も有季も破調もOK。多彩な俳句表現にご関心ある方はぜひどうぞ。
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