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2020年7月10日金曜日

【新連載】『永劫の縄梯子』出発点としての零(2) 救仁郷由美子

 「有耶無耶の関ふりむけば汝と我」の句は一般的な俳句の五音、七音、五音による音数律とは少し異なる。
 七音、五音、五音の十七音からなる。
 この「有耶無耶の関」の句を「汝と我」の出合う場の仮称であると仮定するが、歴史的には山形・秋田の県境、象潟の南にあった古関の名であり、古歌に読み込まれた名前でもある。
 芭蕉『おくのほそ道』での「むやむやの関路」を引用すれば、
 此寺の方丈に座して、簾を捲ば、風景一服の中に盡て、南に鳥海天をささえ、其陰うつりて辻にあり。西はむやむやの関路をかぎり、東に堤を築て秋田にかよふ道遥かに、海北にかまえて浪打ち入る所を汐ごしと云。       芭蕉『おくのほそ道』
「かよう道遥か」な秋田の地に、二〇二〇年の現在、安井は居し、三百年程前に芭蕉は象潟に座した。菅江真澄の『遊覧記Ⅰ』を開けば、芭蕉翁の塚石が「ねむの木のかたわらに」ある。
 二十七日、風が西から吹くので、天気もよくなろうと思い出立した。ひとつ越えていくと川袋という浜をへて関村にはいった。この関村が昔うやむやの関の跡なのであろう。(略)冬枯れたねむの木のかたわら「象かたの雨や西施がねぶの花」と記してあるのは、世間に多い芭蕉翁の塚石である。
真澄から芭蕉、安井から真澄そして芭蕉へ。先達からの言語の水脈が安井の俳句から想い起こされる。

象潟をいま過ぎ越しの夏の花              『汝と我』

 この想い起こしから、「定型の中で」の文中で語る安井の「さまざまな困難性に」思い到る。
 松尾芭蕉は「汝が俳句行為について考える。中世をさかのぼり、遠く荘子逍遥篇他に想いめぐらしながら、遂に、“風狂”として在ることの存在と当為が、俳句行為の決定的意味を担うはずだと考える」――汝が俳句行為“風狂”とは、芭蕉にとって狂い在ることだといい、そして「日常という地獄性の中に狂い在ることだけが」、芭蕉の「存在論の決定的意味というものではなかったか」と問う。
 「存在論の決定的意味」が「狂い在ることだけ」であることは、遠く芭蕉ひとりのことではない。趣味やコミュニティを求める生活を俳句生活と捉えての俳句から、詩・文学・芸術だと俳句を捉えてしまえば、俳句は決定的な存在論となる。存在論に当為論(いかに生くべきか)が伴わなければ、地獄性そのものが、ひとの縁となり、そして、その現象もまた形式のひとつの姿となる。この姿もまた、俳句の文体である。

 個我が「俳句形式を〈文体〉として捉えるとき」「文体とは、それ自身存在をめざすことなく、かえって“零”へ近づくだけであり」、俳句は「文体自身のままに果てるだろう」ならば、「《お前はどうするのか》に今こそ繋がってゆく他ない」。
 そして、「ザインとしての“風狂”を否定し、ゾルレンとしての“不可能性”を選ぼうと思い募る」。この思いが、さまざまな困難性へと向かう、安井の当為論となる。
 ところで、「安井浩司『俳句と書』展の図録(金魚屋プレス日本版)に、俳人安井浩司と生活・職業人・安井浩司についての鶴山裕司のインタビューがある。安井のインタビューでの発言は次のようである。
 (略)だがしかし、汝は我ならずと叫びつつも、汝は我にほかならなのではないか、汝から我は逃げられないのではないか、この矛盾律をどうすればよろしいのか。そこに神さえ介入できない、「汝と我」の宿命にして、なんとも不可解な、不条理の関係があるのです。(略)結語をいわせていただければ、安井浩司のカオスとしての俳句の原点、ささやか書道に挑む基点も、みなここにあるのではないか、と思うことがあります。
「有耶無耶の関」はこの「矛盾律」の場でもあろう。
 安井は存在論と言い、当為論と言う。
 たとえ、今、私達が「汝と我」を問わず、自己の道を求めているとしても、あきらめが存在論や当為論を遠ざけているとしても、安井の俳句を言(こと)解き、事解く思考が運ぶままにあるとき――。
 はっきりしない、あやふやな「有耶無耶」の意味を連なり連なりしてゆくと、渾沌となり、渾沌は虚無をも曖昧にし、したがって、言語による分節が不可能となる。そこは意識と無意識の境であろうから、ならばその境のその場所、〈トポス〉を存在のゼロ・ポイントと考えよう。だが、確認しておかなければならないのは、存在のゼロ・ポイントの場〈トポス〉はあやふやな処であり、絶対零度ではないということである。そして、無意識を言語化出来ない領域の比喩だとするエクリチュールのゼロ値すらも、安井の句ではあやふやなのである。
 この存在のゼロ・ポイントの場〈トポス〉を〈安井浩司〉の俳句の原点とし、ここを俳句の出発点と仮定する。
 「存在をめざすことなく」とは、いかに生きるべきかを問わず、俳人としての何がしかを認め合う俳句生活。そこに背を向け、自らの俳句、何故俳句なのかを問う俳句行為。

 ところで、攝津幸彦は、『汝と我』の句集名から思い出すように、マルティン・ブーバーの論作を読み返したという。ブーバーの『我と汝』は、「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」に始まる西洋的二元論である。『汝と我』には、二元論を気遣いつつも東洋的思想の地脈へと手まねかれた感がある。零度としての主体(自己は変わることなく)から視る(作者の視点)俳句形式の思想。この思想を突き切り、仮設としての零地点を自己の俳句の出立地と定めた。安井の俳句はそのような俳句なのだと思えてくる。

 俳句の読みに思想が必要かと問われたなら、必要であり、必要ではないと言えるだろう。
 しかし、やはり、安井の俳句には、思想としての当為論がある。それならば、「有耶無耶の関」の句は、表層と深層の意識と存在の自己矛盾的関係で結ばれた場〈トポス〉に、俳句の原点を仮説したと改めて想う。
 このような俳句の原点から出立した安井の句は、経験の言語で表現されながら、深層意識的な言語で表現され、「私的絶対化の道(当為論)」の成立によってあるという。
自己の深層意識における光(救済)と深い闇(狂気)でもある汝と我。現実が充分に地獄性に満ちているにしても地獄性を負い求めるのは自己の内なる汝と我である。当為論とは、己の深層意識へ、表層意識へ、どのように生き抜くべきかという己自身の問いである。そして、この思考は言語の内にあり、問うて生きる他ないが為の思考である。詩は思考であり、言語である。この言語は個我と個我を繋いでゆぐ。俳句に生きるのではなく、俳句を生きる俳句観があることを安井の句によってはじめて知るのである。
 現象的な存在世界そのものの窮極的起点がコトバの意味分節にある。(『意識の形而上学』井筒俊彦)
井筒俊彦の広大な東洋思想と俳句が結び合う。だが、俳論として言語化するのは、不可能に近い。それでも、「窮極的起点がコトバの意味分節にある」ことが「有耶無耶の関」における「汝と我」の俳句の原点であり、ここに「詩が要求された」と安井は直感したのではないかと思える。
 只今「詩が要求されたということは意味の新しい次元が要求されたことに外ならない」(「現代の英文学」)と深瀬基寛はいう。この意味すらも「仮りの名(空)」仮象であるという安井の俳句は、当為論をもって、零地点「有耶無耶の関」から、「句篇全六巻」俳句の旅へと出立した。

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