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2020年3月27日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉛ のどか  

シベリア抑留俳句および満州引揚げの俳句を読んで‐その1

(1)過酷な境涯を俳句は支えたか

 ここではまず、シベリア抑留のような厳しく過酷な境遇において、俳句が生きる支えとなったかを確認して行きたい。
 これまで参考にしてきた『シベリヤ俘虜記』には、13名305句が収められている。そのうち随筆を添えている者は7名、俳句のみが紹介されている者は6名である。そしてシベリアの様子を伝える随筆のある7名の中から小田保さん、石丸信二さん、黒谷星音さん、庄子真青海さんと『続・シベリヤ俘虜記』からは、高木一郎さんの作品を取り上げた。
 小田保さん、石丸信二さん、黒谷星音さんは、酷寒の地に於いて個の営みの中で俳句を残し、庄子真青海さんと高木一郎さんは、個別に俳句を詠むばかりでなく句座としての人との繋がりの中で、俳句を詠む環境に恵まれたケースとして枠組みした。
 ただし、庄子真青海さんは、酷寒のシベリアに於いて、高木一郎さんは、欧露の将校集団の収容所(ラーゲリ)に於いてと環境の差がある。
 小田保さんの随筆には、ソ連侵攻時の占守島の戦いや、抑留生活での赤化教育とそれに派生する吊し上げ中心に書かれており、俳句との関連する箇所は見当たらない。あえて言うなら『シベリヤ俘虜記』P.36に~文字に飢えた者らに短歌会を指導しソ連政治将校に踏み込まれた~とあり、小田保さんにとって短歌の経験を生かして俳句を詠むことは、あまりにも日常であり、これをよりどころとしてシベリアの3年間を過ごすことができたのだと思われる。
 黒谷星音さんは、随筆の中で3年間にわたる苦難の抑留生活のなかで、新聞やノートの切れ端に俳句を書き綴ったと書いており、それは亡き戦友への鎮魂や俳句への執念ゆえであり、俳句は心の支えとなったとある。
 石丸信義さんは随筆で、出征後兵営で俳句を作り続け軍隊と言う抑圧された世界で、精神的自由と俳句的自由を持つことができた。大自然を脳裡に深く刻みこんでおきたい、再びと無いこの体験が、私の第2の原風景となることを思ったからであると、書いている。
 シベリア抑留の体験を、1回しか巡り合わない貴重な出来事として、肯定的に受け止め俳句を詠み続けることは、ビクトール・E・フランクルが『夜と霧』の中で言う、「避けられない運命と、それが引き起こすあらゆる苦しみを甘受する流儀には、きわめてきびしい状況でも、人生最後の瞬間においても生を意味深いものにする可能性が開かれている」ということに繋がり、生き延びるための糧になったと考える。
 句座の中で俳句を続ける環境にあった、庄子真青海さんの『シベリヤ俘虜記』の随筆の中には、シベリアでどのように俳句をしたのかについては記されていないが、『続・シベリヤ俘虜記』『カザック風土記 庄子真青海句集』には、月に1回の「若草句会」が開催されたとあり、草皆白影子とのノルマ作業を通じての信頼関係深く、引揚げ後の俳句の世界でもその関係は良好に保たれたとある。
 同じように句座での俳句の場に恵まれた、高木一郎さんは、欧露の左官級の将校が抑留された、ラーダ収容所、エラブカ収容所、ボンヂュカ収容所で、自主的に強制労働に従事している。司令部の高島直一が文化活動として呼びかけたのが俳句会であったと書いており、赤化教育で加熱したつるし上げにより、疑心暗鬼に陥るなか信頼できる人との関係を得ることができたとある。
 しかし、一方で逆境を生き抜くために俳句が支えとなったケースは、出征前から俳句のたしなみがあり、俳句の習熟を得ていたからだという見方もあろうが、収容所での文化活動をきっかけに俳句に親しみ、復員後に本格的に俳句を始めた者もある。
今回採り上げなかった、中央アジアウズベク共和国アングレンにて、運河・建築・炭鉱などの強制労働に従事した北島輝郎さんはの随筆には収容所の俳句短歌の集いの俳句募集のビラへ応募し俳句を始めとある。                         
 また、隈治人さんの場合、ダンボフのラーダ収容所での俳句との出会について、昭和21年の元旦を控えて、兵舎内で短歌・俳句・川柳の募集が行われた。と書かれている。
 極寒のシベリアの収容所や欧露の収容所の文化活動として、五・七・五の調べに自分の境涯や思いを託す俳句や短歌の有ったことは、日本人の幸いである。 
 重複する部分はあるが、『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』を読み進めるなかで、シベリア抑留という想像を絶する環境において、俳句は、①厳しい環境の中死の恐怖を抱きながらの生活を支えた。②抑圧的な軍隊という環境に、精神的自由と俳句的自由を与えた。③厳しい環境の中で、それをたった1回しかない貴重な体験として受け止め能動的に生きる姿勢をもたらした。④座の文学としての横のつながりが、赤化教育やつるし上げにより陥りがちな疑心暗鬼から救い、仲間との信頼関係を回復する効果をもたらした。⑤栄養失調やシラミの媒介する発疹チフスなどで次々と死んでいった仲間への鎮魂としての俳句は、生き残ってしまったという贖罪の念からの救いとなった。以上のような点で、俳句は俳句を杖とする者の境涯を支えた。
                    つづく
参考文献
『シベリヤ俘虜記』小田保編 双弓舎 昭和60年4月Ⅰ日
『続・シベリヤ俘虜記』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『ボルガ虜愁』高木一郎 (株)システム・プランニング 昭和53年9月1日
『カザック風土記』庄子真青海句集 卯辰山文庫 昭和51年4月15日


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