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2020年3月27日金曜日

【俳句評論講座】テクストと鑑賞④ 松代テクスト  

【テクスト本文】
 小澤克己句集「青鷹」を読む       松代 忠博
  
 俳人であり詩人である小澤克己さんと出会いは著者である「奥の細道」の講習会の時でした。いつものように着物姿の出で立ちで現れた時、会場は一瞬静まる状況だった。本論に入り語り口が静かに入り段々と話の本質に触れる頃は咳払いも無く聞き入ったことを思い出します。

一、小澤克己の生い立ち
 小澤克己は昭和二十四年八月一日、埼玉県川越市小室に生まれた。父勲、母つるの三人弟妹の長男である。川越市は城下町で知られ例年一〇月の川越祭りでは多くの山車が出て賑わう。

  高空に水あるごとし青鷹

 この作品は、第一句集の名称で「青鷹」は「もろがえり」と読む。恰も澄んだ湖水に回遊する鯉のように若き克己の勇姿が飛翔する時である。また、未来に向けて歩き出す時でもある。

二、俳人としての小澤克己
 克己が俳句に出会ったのは、十歳の時である。父勲の影響で俳句を作り始める。十三歳のとき父が逝去(享年四十二歳)。昭和四十年に地元の高校に入り在学中から詩を書き始める。詩集「遅滞」「裸形の嵐」「虚空の水域」等刊行。昭和五十六年詩集「遅滞」で埼玉文芸賞準賞(詩部門)受賞。昭和四十九年十九歳学習院大学に入学し、哲学、ヌーボーロマンや現代詩等の影響を受ける。二十五歳の時、川越市役所に奉職。二十八歳(昭和五十三年)「沖」に入会能 村登四郎、林翔に師事。本格的に句作をすることになる。昭和六十二年四月三十八歳、第一句集「青鷹」(蒼海出版刊)出版。第十一回俳人協会新人賞候補。翌年同句集で第十九回文芸賞準賞(俳句部門)受賞。平成四年(一九九二)四十三歳五月、主宰誌「遠嶺」の創刊。同8年六月、評論集「俳句の未来」(蒼海出版刊)の出版。平成五年六月第二句集「爽樹」(牧羊社刊)出版。同年八月、「艶の美学」(沖積社刊)出版。その後、「オリオン」、「花刈女」、「春の庵」、「雪舟」、「塩竈」、「庵と銀河」、「風舟」など全九句集が刊行。その他、テーマ別作品集「俳句の情景」、対談集『俳句の銀河」、同じく対談集「俳句の時空」、研究書「奥の細道「新解説」など。平成二十二年(二〇一〇)享年六十歳逝去。

 現代俳句文庫小澤克己句集(ふらんす堂)あとがきによれば『遠嶺」が創刊一〇周年を迎えた時の感想文として、小澤克己は「俳句はこれで良いと思ったら不思議にぴたりと止まってしまう文芸なのでこれからも更に邁進していきたいと」と述べている。また、もし節目があるとしたら、それは今年かもしれない。句集には歴史がある。私の分身(エセンス)でもあると記述している。(平成十四年五月)。

三、小澤克己の評価
 (1)『沖』主宰能村登四朗氏は、「青鷹」の「序」で次のように述べている。この句集を「青鷹」と命名しその青鷹は三歳鷹の若い鷹ながらも成熟している。若いけれども既に青年の若さを卒業している小澤克己にぴったりの題である。この句集で詩人である小澤克己を俳人として認めている。

  いつも陽の死角にありて浮寝鳥
  毛糸玉秘密を芯に巻かれけり
  浮巣みてより旅人の目となれり


など俳人の感性をしなやかに撓めて一字を美しく表現していると評価している。

  悪霊が来てざわめきぬ黒葡萄
  往来の人を魚とす花氷
  ふいの子の遊びが変わり夏に入る


の三句は俳人とは別に詩人である一面がでていてしかも俳句作品になっていると評価している。小澤克己が俳人として認められたことは、今後の俳句活動に大きな自信に繋がったと思われる。

(2)一方、師の林翔氏によれば、「青鷹」のように三十代「青」の世代と言って「鷹のように雄雄しい。そのますらをぶりは俳句の用語に表れていると。

  惨敗の日は凍蝶を見て飽かず
  信条は一語で足れり冬の滝
  凜として苗代寒のこゑ通す


 漢語が句の中で重みを持っていると評価している。
 また、俳人的特質の句として次の作品を上げている。

  山に日がすとんと落ちて柚子湯わく
  徐々に空傾ぐ冬木を伐ってをり
  炎天のはるかより来て尼僧なり


四、小澤克己句集「青鷹」の鑑賞の試み
  いつも陽の死角にありて浮寝鳥

いつも陽の当らない場所を選んでいる浮寝鳥。おそらく鴨であろう。作者の分身かも知れぬ。敢えて陽の当らない場所は安逸しているわけではない。単なる作者の居場所であろう。これからの作者が俳人として歩む場所のように感ずる。

  湖国いま水の微熱の蝌蚪曇り

昭和五十三年三月浜名湖における同人研修会で能村主宰の特選を得たものである。何よりも「水の微熱」が正しく早春の浜名湖に相応しく言うに言われぬ措辞である。「蝌蚪曇り」と「水の微熱」の調べがこころよい。

  藻の花が咲いて浮上を許さるる

 藻の花は、蕾の時は水中にあり夏になると水面に花を咲かせる。単なる見たままの写生でなく詩的な表現でまとめている。言語芸術の花である(林翔氏)。
若死の父ほど麦踏み難し
 作者は十三歳の時で、父は四十二歳で逝去された。思わぬ死去は、いつも頭の隅にありその父への思いを句にしている。

  父の箸すこし剥げをり花菜漬
  歳晩の父在らば割る薪ならむ
  まだ若き時間の中で胡桃割る


 「蒼」とは青とも碧とも違う。青黒く変化する過程の色と思われる。そのような時間帯。救いの灯はまだ遠い。

五、小澤克己句集「青鷹」を読んで
 「青鷹」を出版した当時は、現代俳句がユニークな作品を求めた時代である。林翔氏によれば、この句集は見事に反映されていると評価している。
 作者は「庵と銀河」のあとがきで、発心・青雲・銀河・精華・無常・和の提唱する情景俳句の推移が分かるように試みた。この「庵文学」を更に深めて行き、憧憬の西行、芭蕉、蕪村らに少しでも近づきたいと述べている。大胆且壮大な志である。志半ばで急逝されたことは残念でならない。その志を継ぐ人には、今後の研鑽を待つしかないと思われる。

引用文献
小澤克己句集「青鷹」蒼海出版
俳句雑誌 「遠嶺」小澤克己追悼・最終号
現代俳句文庫 小澤克己句集 ふらんす堂
「庵と銀河」小澤克己著作 文学の森
「風舟」小澤克己句集 角川書店



【角谷昌子・鑑賞と批評】
 松代さんは、俳人協会の俳句評論講座に参加され、師系についての座談会や研究をなさったらいかがか、との講師のアドバイスに従い、さっそく小澤克己研究に踏み出されました。

 提出された小澤克己論のイントロ部分ですが、出会いの記述のみとなっています。ほかにも師との個人的な体験から、師の人物像が立体的に描かれ、なぜ師事したのか、対象の魅力を伝えると読者も引き込まれると思います。


1)    生い立ち、2)俳人としての小澤克己:これらを別々にせず、この二つを合わせて

略歴を記述し、なぜ第一句集『青鷹』にフォーカスしたのか、理由を書きたいです。また、せっかく小澤克己の言葉を引用したら、そこから論を膨らませたらいかがでしょう。
 
3)小澤克己の評価:登四郎、翔の評価を引用しつつ、ご自身の作品鑑賞を広げたい。

4)『青鷹』鑑賞の試み:登四郎・翔の鑑賞引用から、3)同様に著者の鑑賞を深め、広げたい。ですので、3)4)は、分けなくてもよろしいかと。


5)『青鷹』を読んで:結論部分です。作家論、作品評というより、感想になってしまいました。


〇全体的に、もっと小澤克己の言葉(その場合も、長々と引用する必要はなく)の要点を捉え、彼の作家としての姿勢・志を表現したいです。師事された小澤克己の俳句、また文学への態度が、いかに『青鷹』に反映されたか、論じられたらいかがでしょうか。鑑賞・評価も、先人の言葉の引用中心ではなく、引用から発展させて著者自身の言葉で理論展開していければと思います。

 いずれにしても、まったく初めて作家論を執筆されたわけです。この作を出発点としてさらに肉付けし、ご自身の視点で新しい小澤克己論が執筆されることを期待しています。

【筑紫磐井・鑑賞と批評】
<はじめに>
松代忠博さま

 テクストをありがとうございます。

 第3回の講座では受講者から提出していただいた論文を、私と角谷さんが中心となり論評する方式を取らせて頂きました。拝見したところ、すでに何回か評論を執筆した経験のある方が中心であり、客観的に鑑賞や評価だけで進めてゆくことが可能と思ったからです。
 一方、BLOGには既に評論を連載されている大関さんから、評論のとりまとめ方のご質問を頂きました。せっかくこうした場が出来たからは、色々なご希望に沿って行きたいと思います。
 さて第1回の講座でご質問があったようになかなか書くきっかけのない結社の方がどのように評論を書くかということで、共同研究のやり方をおすすめしました。今回松代さんからは、その第1回目のテクストを提出していただき、あわせて共同研究を進められたい旨ご連絡がありました。
 そこで折角ですので、角谷さんから頂いたコメントを掲載させていただきましたが、一方的に鑑賞批評するだけではなく、共同研究を進めるための私なりの助言もしてみた方がいいのではないかと思いました。
 既に練達の方にはあまり必要が無いかもしれませんが、俳句に入門講座があるように、俳句評論にも入門講座があっても良いと思われたからです。考えるとどんな立派な評論家であっても最初から立派である人ばかりではありません。飯島晴子の昔を知る人から伺ったところ、女性評論家としてぴか一と言われていた彼女も初心時代は涙が出るほどさえない文章であったと聞いたことがあります(これはまた聞きですので正確ではないかもしれません。飯島晴子ファンには失礼します)。
 評論を書くためには各自が試行錯誤してゆくよりしょうがないという王道の見方もありますが、しかし一方で色々なヒントや助言があるに越したことはないと思います。
 第3回の講座のような方式をとったのは、提出者がテーマを探索中で、改めて書く場合も別のテーマになるだろうと思ったからです(テーマが点々移転する可能性があるということです)が、松代さんの場合(共同研究者も含めて)は、テーマはあまり変わらない(小沢克己論)のではないかと思います。その意味ではほかのお三方と少し違ったやり方で進めてはどうかと思います。
 幸い、私も「沖」に在籍し、沖のバックナンバー、小沢さんの著書、古い書簡等を持っているので、利用も可能ですので何かヒントになることを申し上げられると思います。

<そのスタート>
 小沢さんは物故されたとはいえ長い俳句活動があり、さらにその前に詩や短歌でも活動していたこともあり、語るべき材料はいろいろあります。一方、若くして亡くなりあまり結社外では小沢論は多くなく、亡くなった後語られることも少ないようです。その意味では、日の目の当たっていない資料はいろいろあると思います。ご参考までに、思い出す範囲で紹介しましょう。特に、角谷さんが指摘している「彼の作家としての姿勢・志」は結局一番最初にさかのぼることによってたぶんピュアに見えてくると思います。その役に立ちそうなことをやや煩瑣になりますが述べさせていただきましょう。
    *
 小沢さんは、昭和53年(28歳)に「沖」に入会しています。小沢さんが入った直後から私は注目していました。理由は二つあります。
 一つは、小澤さんの入会した直後の54年1月は沖創刊百号記念に当っており、例年にないボリュームある新年号となっていますが、このとき公募された記念作品に、評論の部では筑紫磐井が二位(「女流俳句論」)、小沢克己が三位(「感動の過程」)に入賞したからです。当初からライバルとしてデビューする宿命でした。
 もう一つは、沖では創刊以来、例年二十代、三十代の作家を交互に集めた青年作家特集を五月に行っていました。2か月あとに、結社以外の人気作家にこれらの作品を論評させていたのです。小沢さんが、青年出家特集に最初に登場したのは54年5月でした。
このときの評者、青柳志解樹氏(「山暦」主宰)の懇切丁寧な句評のなかから特に好評を得た句をひいてみます。

  滝口はむしろ静寂山桜       能村研三
  色鯉の暗きに集ひ桜冷え      森岡正作
  まづ空と頒つ興奮辛夷咲く     小沢克己
  いつときは花をちからの想夫恋   筑紫磐井
  思ひきりカーテンをひくリラの花  正木ゆう子


 さらに、この特集で注目すべきことは、特集によせられた能村登四郎のことばでした。その中で、こんなことを言っています。

 「曾て今の六十代の作家が三、四十代のころ社会性俳句が抬頭して戚勢のいい論争が行われたりしてジャーナリズムを賑わしたが、その社会性派と行動を同じくしなかった飯田龍太とか森澄雄などは、寡黙ながら地味な実作で独自の俳句の世界を作って今川に至っている。その頃の三、四十代は今のように先輩に対して畏縮したりしない一種の気慨と自負をもっていたようである。それやこれやを考えると、今の三、四十代の作家は若いということを力にして、もっと自信をもって行動してもよいのではあるまいか。」(「青年作家に望む」)

 これは青年作家一般に対して言っているだけでなく、一躍デビューした(この直前に巻頭となっています)小沢さんに向けられた言葉でもあるのでしょう。
 私は、57年2月に「沖二十代の群像」という評論を書いており、それまでの沖青年作家の活躍を論じたのですが、このとき一章を割いて小沢さんについて書いています。恐らく、俳壇で最初に書かれた小沢克己論であったのではないかと思います。

 「この年(54年)初めて青年作家特集に参加した小沢克己氏は、詩に評論に幅広い活仂をされているが、そのバイタリティにより見事沖作品の巻頭をとげ、翌年同人に推薦されている。

  いつも陽の死角にありて浮寝鳥   小沢 克己
  毛糸玉秘密を芯に巻かれけり
  考へのどこかで狂ふ冬林檎


 また、その後小沢氏は「シュルレアリスムと俳句」と題して、この詩的技法と俳句について論ぜられた一編を書かれている。若い作家として当然の欲求ともいえる詩論への架け橋として、いささか難解ではあるが熱っぽくプルトン一派の主張を述べられていたのが印象的であった。」


 ここに書かれた通り54年3月沖作品の巻頭を得て、55年1月同人となっているのです(私と正木ゆう子は翌年同人となっています)。入会してから2年もたたないうちに同人となったのには皆が呆然としたのも無理ないでしょう。
その時の巻頭作品の、登四郎評を掲げましょう。

「いつも陽の死角にありて浮寝鳥   小沢 克己

 一読しておわかりのことと思うが、発想が従来の沖のものとちがうことである。ちかっていて、やはり「沖」風と異質のものでない。つまり「沖」の新しい方向を示した作品であることである。掲句は「死角」などという熟さない言葉を使っていてもすこしも気にならない。内容が浮寝鳥のような古典的なものだからである。」【注】

 ここで、登四郎が「「沖」風」と言っているのは、初期の「沖」にあっては、登四郎、林翔や有力同人に限らず、擬人法を中心とした人為的な表現法を積極的に取り入れており、それが「沖」風と呼ばれていたものなのです。当時の若い作家たちは皆こうした創作環境の中で切磋琢磨したのでした。小沢さんを知るためにも、この点は見逃せないと思います。果たして小沢さんは、「沖」風を脱したのか、「沖」風を深めていったのか、それは松代さんたちにぜひ研究していただきたい点です。

【注】この原稿を執筆後、バックナンバーそのものを探し出して読んでみると原文が次の通りでした。私の元にした資料は大分抜粋しています。


 「同人を数名潮鳴集(筆者注:「沖」の同人作品欄)に送った後(筆者注:「沖」では毎年1月新同人の発表が行われていた)なので、どんな新人があらにわれるかと期待していたら、今月は若い男性作家が期せずして四位までのところに並んだ。その中で誰を巻頭にしようかとしばらく迷った。その結果もっとも入会の新しい小沢克己君にきまった。

  いつも陽の死角にありて浮寝鳥 小沢 克己
  毛糸玉秘密を芯に巻かれけり
  考へのどこかで狂ふ冬林檎


 一読しておわかりのことと思うが、発想が従来の沖のものとちがうことである。ちがっていて、やはり「。沖」風と異質のものでない。つまり「沖」の新しい方向を示した作品であることである。今「舵の会」あたりで上谷昌憲さんがしきりと試みている新しい系列の作品であるがいかにも二十代の青年らしい斬新さと意欲かある。小沢君は百号の論文でみごと入選したが、作句の底にあのような文学的な理論の裏付けがあるから、俳句の上でどんな新しい試みをしても安心して見ていられる。筑紫磐并君などもあれほどいい評論を書く人だから、俳句にもう一つ踏んばってくれたらといつも思う。
 第一句、「死角」などという熟さない言葉を使っていてもすこしも気にならない。内容が浮寝鳥のような古典的なものだからである。「毛糸玉」の句も「秘密」という語彙がうまく内容ととけ込んでいる。このような毛糸巻の句は未だ見たことがない。第三句の 「冬林檎」の句も林檎を卓上に置いてあれこれと思案する作者の迷える姿が想像される。「沖」の百号以後の新風を期待する。」


<おわりに>

 若い頃の手柄話のような話になり恐縮ですが、当時のことを知る人は少なくなっているために敢て申しあげました。これから研究を進めてゆくにあたって多少ともお役に立てば幸いです。
 ただ申上げますが、評論の書き方は百人百様あり、ここにあげたのは私流の評論の書き方(実証的方法)であり、たった一つの例に過ぎないことです。評論を書くと言うことは、こうした一人一人の評論の書き方を探してゆく事だろうと思います。

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