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2020年1月10日金曜日

【緊急発言】切れ論補足(5)動態的切字論3――現代俳句の文体――切字の彼方へ

■時代を溯る・切字の拡大の可能性
 さて前回は切字の時代を下ってみた。
   二条良基は新スタンダードのスタートの時代で、あったと言うことができる。『連理秘抄』は連歌の基本文献であるが、この良基の本からほぼ成熟完成した新選菟玖波集(その直前に傑作の「水無瀬三吟」が生まれている)までたかだか150年であるのに対して、後撰和歌集から良基まで400年もあることだ。これは江戸時代+近・現代日本が丸々中に入ってしまうほどの年数である。この長大な時間の中で実は切字が熟成するのである。今回はこの熟成過程を眺めてみたい。

785年 万葉集(巻8秋) 尼と家持の唱和連歌
951年 後撰和歌集の連歌1首(巻6・秋1首)
1005-7年 拾遺和歌集(巻18・雑賀6首)
1124年 金葉和歌集(巻10・連歌19首)
1221年 順徳院『八雲御抄』
1345年 二条良基『連理秘抄』
1357年 勅撰集『菟玖波集』
1488年 「水無瀬三吟」
1495年 勅撰集『新選菟玖波集』

 連歌の歴史は、大まかに言えば、
(1)唱和連歌
(2)鎖連歌
(3)百韻連歌
と推移する。切字を考察するには百韻連歌だけを考察するのではなく、これら全てを通じて切字の形態を考察する必要がある。
 そこで三つの連歌作品を収録する勅撰和歌集『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『金葉和歌集』を眺めてみる。資料としては、このほかに『散木和歌集』『俊頼脳髄』(1129年以前)や私歌集にも連歌作品が収録されているが、範囲を確定し、時代推移を眺めるためには勅撰和歌集が便利であるので採用した。特に他意はない。言っておけば、これら和歌集は唱和連歌から鎖連歌の過渡期にあったといえよう。

■3大勅撰和歌集の連歌における切字
①後撰和歌集(巻6・秋中1首)(951年)
              読み人知らず
白露のおくにあまたの声すれば[注]
 花のいろいろありと知らなん
[注]『俊頼髄脳』では「すなり」とする。

②拾遺和歌集(巻18・雑賀6首)(1005-7年)
流俗の色にはあらず梅の花 右大将実資
 珍重すべきものとこそみれ 致方の朝臣
春はもえ秋はこがるるかまどやま 元輔
 霞も霧もけぶりとぞみる
おもひたちぬるけふにもあるかな 藤原忠君朝臣
 かからでもありにしものを春がすみ むすめ
くらすべしやは今までに君 侍女
 とふやとぞ我もまちつる春の日を 広幡御息所
さ夜ふけていまはなぶたくなりにけり 天暦御製
 夢にあふべき人やまつらむ しげのの内侍
人ごころうしみつ今はたのまじよ 女
 夢に見ゆやとねぞすぎにける 平貞文


●切字に相当する句末の形態
 この歌集から、切字に相当する句末の形態を眺めてみると、次のようなものが挙げられる。

[拾遺和歌集連歌句末一覧1]
かな 1句 
けり・ける 2句 
らむ 1句 

 あまり、切字に相当する句末は多く出現していない。のみならず、興味深いことには、575(上句)、77(下句)と分けると、

[拾遺和歌集連歌句末一覧2]
かな・・・下句1
けり・ける・・・上句1  下句1
らむ・・・下句1

と、後の切字のように、575(上句)に特徴的ではないことである。

③金葉和歌集(巻10・連歌19首)(1124年)
あつま人のこゑこそ北にきこゆなれ 永成法師
 陸奥国よりこしにやあるらむ 律師慶範
ももそののももの花こそ咲きにけれ 頼経法師
 梅津のうめは散りやしぬらむ 公資朝臣
しめの内にきねの音こそきこゆなれ 神主成助
 いかなる神のつくにか有らむ 行重
春の田にすきいりぬへきおきなかな 僧正源覚
 かのみなくちに水をいれはや 宇治入道前太政大臣
日の入るはくれなゐにこそ似たりけれ 観暹法師
 あかねさすとも思ひけるかな 平為成
田にはむ駒はくろにさりけり 永源法師
 なはしろの水にはかけと見えつれと 永成法師
かはらやの板ふきにても見ゆるかな 読人しらず
 つちくれしてや作りそめけむ 助成
つれなく立てるしかの島かな 為助
 ゆみはりの月のいるにもおとろかて 國忠
かも川をつるはきにてもわたるかな 頼綱朝臣
 かりはかまをはをしとおもひて 信綱
なににあゆるを鮎といふらむ 読人しらず
 鵜舟にはとりいれし物をおほつかな 匡房卿妹
ちはやふるかみをはあしにまく物か 神主忠頼
 是をそしものやしろとはいふ 和泉式部

(別本の作品)
たでかる船のすぐるなりけり 源頼光朝臣
 朝まだきからろのおとの聞こゆるは 相模母
花くぎは散るてふことぞなかりける 読人しらず
 風のまにまにうてばなりけり 前太政大臣家木綿四手
ひくにはよわきすまひ草かな 読人しらず
 とる手にははかなくうつる花なれど
雨ふればきじもしととになりにけり
 かささぎならばかからましやは
うめの花がさきたるみのむし 律師慶暹
 あめよりは風吹くなとやおもふらむ (まへなるわらは)
あらうと見れどくろき鳥かな 頼算法師
 さもこそは住の江ならめよとともに
よるおとすなりたきのしら糸 読人しらず
 くり返しひるもわくとは見ゆれども
奥なるをもやはしらとはいふ 成光
 見わたせば内にもとをばたててけり 観暹法師


●切字に相当する句末の形態
切字に相当する句末の形態を眺めてみると、次のようなものが挙げられる。

[金葉和歌集連歌句末一覧1]
かな 8句 
けり・けれ・ける 8句 
らむ 5句 
なれ 2句 
けむ 1句
ばや 1句
やは  1句
か  1句

このように、切字に相当する句末の形態で、「かな」、「けり」、「らむ」がやっと顕著になってくることがわかる。しかしそれでも、575(上句)、77(下句)と分けると、驚くことに下の句が結構多いのである。

[金葉和歌集連歌句末一覧2]
かな・・・上句4  下句4
けり・けれ・ける・・・上句5  下句3
らむ・・・上句1  下句4
なれ・・・上句2
けむ・・・下句1
ばや・・・ 下句1
やは・・・下句1
か・・・上句1

さて切字を離れて、特徴的な句末の形態を拾えば次のようになる。煩わしいので、上の句、下の句の区別をつけないで単純に列挙すると次のようになる。

[金葉和歌集連歌句末(非切字)一覧]

とはいふ 2句 
て 2句  
ども  1句
ともに  1句
なれど  1句
は 1句

 このように、前回の二条良基以後の下って行く切字にかかわる全品詞の推移表で見られた切字の増加が、実は溯ってすでにたくさん発見することができたのである。

 金葉和歌集の選者の藤原俊頼には、『散木奇歌集』のような歌集、『俊頼髄脳』のような歌論書の中でも連歌に関心を示しており、初期連歌の集積として貴重である(『散木奇歌集』はその名の通り奇歌が多いので正統的な連歌としてはやや逸脱しているようであるし、『俊頼髄脳』は歌集ではないので、すぐれた連歌を選んだという意味ではやや割り引く必要があるかも知れない)。このほかにも、『忠岑集』のように私家集に連歌の含まれているものが多く見られる。ただこれらを総合しても、後撰和歌集、拾遺和歌集、金葉和歌集の勅撰和歌集の傾向を出ることはないようである。

【結論】
 連歌の歴史は、冒頭、(1)唱和連歌、(2)鎖連歌、(3)百韻連歌があると述べた。これを踏まえて結論をまとめてみたい。

❶連歌論の通説や仁平の切字論で言う「発句(上句575)と脇句(下句77)を切断するために切字がある」というのは正確ではないようである(これは百韻連歌についてのみ言うべき事だからである)。すべての連歌[注]では、上句でも下句でも句末で切断する構造が必要なのである。そのために句末の類型構造ができあがってきた。その理由は、上句と下句が独立しないと融合してしまい短歌形式となってしまうという恐怖感によるものであると考える。
[注]「連歌」と言ってしまうのは不正確である。短歌(五七五七七)を分断してできる短詩型形式と言うべきである。五七五も七七も両方含めて言うのである。
❷句末類型構造の代表が(上句にも下句にも共通で)、すでに三大勅撰和歌集で見たように「かな」、「けり」、「らむ」であった。しかしそれ以外にさまざまな表現も発展した。百韻連歌で次第に登場する「なれ」、「けむ」、「ばや」、「やは」、「か」、も早くからあったし、連歌でまだ使われていない(次回以降説明しようと思う、俳句時代に「切字もどき」で登場する)「とはいふ」、「て」、「ども」、「ともに」、「なれど」、「は」なども句末類型構造となる可能性があったのである。少なくとも、百韻連歌に先立って、唱和連歌・短連歌形式にあっては、多くの「切字もどき」があふれていたのである(制度化した百韻連歌によって初めて「切字」という固定化した言葉、固定化した概念が生まれたと言って良いであろう。制度化以前の自由な表現における連歌の句末類型構造は「切字」とは言わない)。
❸この変遷を追ってみると、後撰和歌集時代では句末構造は未だなく、拾遺和歌集時代でその傾向が現れ始め、金葉和歌集時代で盛りを迎えたと言って良いだろう。その意味で示唆的なのは、[注]で述べたように、後撰和歌集の連歌を俊頼が『俊頼髄脳』に収録するとき誤記してしまっていることである。これは後撰和歌集の連歌を、金葉和歌集時代の基準で俊頼が読みとってしまったからなのである。「誤記」には合理的根拠があるのである。

【詩学的総括】
 短歌形式から分裂した上句(575)、下句(77)の短詩形式は、短歌形式に吸収されないように句末類型構造を常に希求する。百韻連歌時代はそれが「切字」となったのであるが、しかしそれが全てではない。連歌(俳諧も含めて)と言うジャンルが文学史から消滅しても、上句、下句の短詩形式が独立して存在する限り、句末類型構造を求める運動が永遠に続くのである。いわば短歌形式とはブラックボックスのように、上句、下句を吞みこんで行く宇宙なのである、これに対する抵抗が句末構造である。だから我々がこれから求めるのは、連歌(俳諧)の切字ではなく、独立の俳句系式(近・現代俳句)において句末構造がどのように究極化されるかである。
 こうした時代にもはや「切字」を前提とした「切れ」等は求められないであろう。

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