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2019年7月12日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~⑮  のどか

第2章‐シベリア抑留俳句を読む
Ⅳ 庄子真青海(しょうじ まさみ)さんの場合(1)
 庄子真青海さんは、大正15年5月17日、樺太大泊富内町に生まれる。本名庄子正視、会社役員。昭和20年6月末、樺太第88師団(通称要兵団)麾下(キカ)のこの年5月に再編成された歩兵第306連隊に現役兵として入営。程なく終戦のため樺太内路山中にて抑留の身となる。昭和23年5月樺太真岡港より函館港に帰還。※麾下(キカ)とは「ある人物の指揮下にある」の意味。

 以下*は、『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』の作者随筆と庄子真青海さんの句集『カザック風土記』を参考にした筆者文。

『シベリヤ俘虜記』(望郷・抑留句抄)『続・シベリヤ俘虜記』『カザック風土記』から

   日ソ無名戦死碑建設
 「生きて虜囚の」茜砕きて斧振う(シベリヤ俘虜記)(カザック風土記)
*この句は、『シベリヤ俘虜記』に〝日ソ無名戦死碑建設”の前書きがあるが、庄子さんのカザック風土記には、前書きなしで載せられている。前書きなしでは、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓に呪縛され生き残ったことを恥と思いながら、夕焼けのなか強制労働をしていると解釈してしまう。
 一方、前書きのある句では、庄子さん自身も「生きて虜囚の・・・」の語句の重さに捕虜の身の複雑な思いを深くしながら、戦場整理と日ソ無名戦死碑建設に携わり、夕焼けに赤く染まる樺太の地に斧を振るい、戦に死んでいった人々の亡骸を埋め弔った事実が明らかになる。
 『続・シベリヤ俘虜記』の随筆には、樺太内路山中をさまよい、1945(昭和20)年8月23日に武装解除を受け、上敷香の旧日本軍の兵舎へたどり着いたとあり、そこでの出来事を庄子さんは、『続・シベリヤ俘虜記』P.73で以下のように書いている。

上敷香に凡そ3千人は終結させられたであろう日本軍将兵の大集団も
 9、10月にかけて将校集団がいずこかへ送られたあと、1千人単位の労働大隊の幾つかに編成替えされながら、北緯50度の旧ソ連地区を越え、ソ連領北樺太の第56狙撃師団の終結地になったというオノール・あるいはアレクサンドロフを経由、一部は沿海州に渡りシベリヤ各地の抑留地へ散ったという。この事実は復員後、戦友らの多くの証言によって知ったのであるが。
 そして最後まで残された私たち労働大隊も、激戦の場となった国境、古屯などの戦場整理に移動した後の11月末、それまで建立作業に従事していた「日ソ無名戦士の碑」の完成を待っていたように、新たなる苦役の地、泊岸炭鉱を目指し南下移動してゆく。
 9、10月にかけて将校集団がいずこかへ送られたあと、1千人単位の労働大隊の幾つかに編成替えされながら、北緯50度の旧ソ連地区を越え、ソ連領北樺太の第56狙撃師団の終結地になったというオノール・あるいはアレクサンドロフを経由、一部は沿海州に渡りシベリヤ各地の抑留地へ散ったという。この事実は復員後、戦友らの多くの証言によって知ったのであるが。 そして最後まで残された私たち労働大隊も、激戦の場となった国境、古屯などの戦場整理に移動した後の11月末、それまで建立作業に従事していた「日ソ無名戦士の碑」の完成を待っていたように、新たなる苦役の地、泊岸炭鉱を目指し南下移動してゆく。

   国立農場
 白夜耕す余力なき身に余力ため
*庄子さんが昭和51年4月15日に刊行した『カザック風土記 庄子真青海句集』卯辰山文庫のP.174~175には、無聊をかこつ抑留所に「若草会」というグループができて、ここで草皆白影子を知ることになる。草皆白影子こそは、真青海半生の無二の親友であって、ノーマル作業に苦しむ生来蒲柳の真青海を自分の作業グループに引き入れ、軽作業に回すなど庇護してくれたとある。
 さて、北極圏では夏至のころに白夜となる。日中にもノルマを課せられた上に、さらなる残業になったのか、ノルマが終わらず白夜のなかで、国営農場の畑を耕しているのか。蒲柳のとは「蒲柳の質」を省略したものか、体質がひ弱であった庄子さんは、もう力の残っていない体から絞り出すように力をためて一鍬一鍬耕すのであった。

 かさね臥し誰の骨鳴る結氷期(シベリヤ俘虜記)(カザック風土記)
*収容所(ラーゲリ)のベッドは蚕の棚のように段々に作られている。結氷期には、横向きに重なりあい、お互いの体温で温めあって眠る。寝返りにやせ細った四肢や骨盤を動かす音が聞こえてくる深夜である。

 昼寝覚め香煙硝煙いずれとなく(続・シベリヤ俘虜記)
*昼寝から覚めると焼香の線香の煙か火薬を爆発させた煙のいずれでも無い臭いがしているとあるが、誰にも機関銃の火薬の匂いであることは明白である。この煙を暗に香煙ということにより、誰かが死んだことを示している。この句の背景には、炭鉱の苦しい作業に耐えかねた仲間が、脱走を計ったが警備兵の機関銃に撃たれたエピソードがある。それについて、「続・シベリヤ俘虜記」P.75を紹介する。
 
 露天掘りで、炭層が露出するまでの厚さ2、3米から処によっては5、6米に及ぶ丘陵の剝土作業の辛さ。ことに冬将軍吹き荒れる12月から3月にかけて、石のような凍土の地表を発破をかけながらすすめてゆく。この発破をしかけるための穴掘り作業は修羅場である。沸らせた薬缶の湯を注ぎながら、長さ六尺ほどの鉄の棒を間断なく上下させては掘りすすめてゆく捕虜たち。日もすがら寒風荒ぶ丘陵に幾十人も点々と隔たりをおいての個の作業は、冬期でもあり、また冬期であるがために課せられるそれは、当然のように規定のノルマにはほど遠い。(略)
 そんな日々が続いた或日、この地獄の責苦に耐えかねてか、二人の捕虜仲間が深雪の中を腰まで埋めながら、白昼の脱走を計ったが,神は遂に二人に味方せず、山頂に据えられた警備兵の機関銃掃射の前に雪を鮮血に染めながら若い命を散らす事件が起きた。
 そんな日々が続いた或日、この地獄の責苦に耐えかねてか、二人の捕虜仲間が深雪の中を腰まで埋めながら、白昼の脱走を計ったが,神は遂に二人に味方せず、山頂に据えられた警備兵の機関銃掃射の前に雪を鮮血に染めながら若い命を散らす事件が起きた。

 借命や撃たれきらめく宙の鷹(シベリヤ俘虜記)(カザック風土記)
*警備兵の機関銃で撃たれきらきら光りを残しながら、落ちてくる鷹に、この世の命は借りの命であると洞察し、自分の運命に重ねるのである。
(つづく)

参考文献
『シベリヤ俘虜記~抑留俳句選集~』小田保編 双弓舎 昭和60年4月1日
『続・シベリヤ俘虜記~抑留俳句~』小田保編 双弓舎 平成元年8月15日
『カザック風土記~庄子真青海句集』卯辰山文庫 昭和51年4月15日


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