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2019年3月22日金曜日

【佐藤りえ句集『景色』を読みたい】6 宇宙少女の地球観光——佐藤りえ句集管見  堀本吟

0 まえがき


 いよいよ終活段階に入った私には、発展途上の若い人たちの俳句については、わかったつもりでいても、既にわれわれは同じ穴にいながら互いに理解不能なあがきに陥っているのではないか、と感じ、かように必要とされることになってもちろんうれしくは思いながらも、同時に、この人(たち)の世界をうまく読み解けるかな、という不安(それほど深刻でもないが)がよぎる。
 しかしながら私は、句集をひらいてみて、じつはとても楽しい気分になったのである。
 作者の選んでいる俳句のスタイルはほとんどが一般につかわれている五七五・十七音である。無季句もあるが一応季語を守っている。しかしながら素直に四季の運行に従っているかと言うとそうではない、すこし奇妙な「景色」がひらかれる。素材が大胆であること、今の世には存在しないかなりの事物が現れる。それから主格主語がわかりにくい、わかっても妙に奇異であること、等である。しかもそれにしては、表紙がとても地味で落ち着いた(しかし、どこのものなのかわからない)風景画である。句集名は、ズバリ『景色ーLANDSCAPE』。なぜ、このタイトルを?
 というのは、私は、「景」という言葉にまつわることがずいぶん好きなのである。小説でも詩でも俳句でも、しばしばそこに「景」をみつけだしては喜ぶ。空いた時間ができたら、備前焼の湯呑に焼きしめた炎の痕をぼーっと見ている、そのときに浮かんでくる「景」。水に墨汁一滴、一回掻き回しひろがるマーブル模様の渦の「景」。もちろん、目を休めるためにながめる窓外の「景」、動かないようでいてとめどなく変わる雲の「景」。
 また、俳句に言われるいわゆる言葉の「景」で、記憶に残るものだけでもかなりある。
 例えば、以下のような句例はほんの一部である。
  元日や一系の天子富士の山    内藤鳴雪『鳴雪句集』
  阿部定にしぐれ花やぐ昭和かな  筑紫磐井『我が時代』
  いくつもの時間を束ね散るさくら 花谷 清『球殻』
 正岡子規の先輩なのに子規の弟子になった内藤鳴雪。富士山を焦点にして明治人の元旦のハレの気分が目に見えるようだ。おおらかな「大景」だ。戦争に勝っても負けても元号が変わろうと変わるまいと、天皇制においては依然「一系の天子」。「富士山」も変わらぬ、「元日」もしかり。現代の象徴天皇制下では、まだ、ミゴトな「景」として活きている。
 筑紫磐井のこれは、ハレの句とはとうてい言えぬのだが、時雨の中を大事そうに何かを抱え込んで小走りにゆく女は、切羽詰まっているように見えてどことなく艶である。「阿部定事件」という世を驚かせたスキャンダルを知らぬ読者には、この句でもって戦前の昭和の時代世相を、深くは味わえないかも知れない。それは仕方がないことだが、であっても、彼女にとってもっとも大切なものは何だったのか?それくらいは考えてほしい、その一物が「昭和の時代」を象徴する、と磐井は書くのである。食えない作家である、そして、この阿部定も食えない女である、この句は食えない一句である。これも一種の奇想だが俳句形式で時代を包括し得た「大景」というべきだ。
 花谷清の句には、科学の分野の専門用語がしばしば出てくる。かなり観念的な思索を要求されるものが多い。この「時間」にも物理学の概念が含まれているのかも知れない。(もっとも私は、そこまでは考えない。)
 眼前に散る「桜」は「時間を束ね」たように思え実際にそう見えるのである。「富士山」と同じ、日本人は様々の感慨をこの花に託す。古くからのイメージを背負ってきた花にぶつけて、その二物衝撃のなかであたらしい美の風景を作ろうとしている。われわれはその表現された詩歌の記憶(時間の累積)を抱いて、季節が来るとそんな「桜」を見上げる。  
 それでは、佐藤りえ句集の中の「景」は、先行するそのような景に何か新しい要素を加えているだろうか?
 句集には、そのような先行句にみられる「過去景」も無論収められる、しかし、むしろ「未来系」いや「未来景」というべき時制がチラチラと現れている。これはなんだ、といいたいのである。そういうところが、新しみとしておもしろい。
 また、むしろ、一歩進んで、到来していない未来に飛び、どこからか現在を過去とみなす視点を得ることもできるのではないだろうか?まるで、SF映画かテレビアニメのように
  うるはしき地球忘れてしまひけり 佐藤りえ 句集『景色』p121《望郷篇》
 たとえば、この句では、彼女は何処にいて地球のことを考えているのだろう。
宇宙飛行士にでもなりきって、地球を外から眺めているからこういうのである。人類はもう画期的な経験をはたしている。彼女個人はまだそこにいってなくとも、近未来的にはあるいは可能になることだ。いやその気になって、それを果たし得たときが、彼女の「現在時」でもあるだろう。
 俳句の景色に地球や宇宙が登場する例は、彼女が最初というわけではない。が、それら名句の多くは、いまだ地球に立つ人間の地上の旅人の感慨に沿っているものが多いのである。もちろん、そういう題材や光景もこの句集にはある。が、彼女が一章を立てていかにも当然のように描く宇宙や地球の風景は、いまだ現実ではないのにもう現実界のできごとのように進行している。しかも、それをぬけぬけと書いている。そして騙されやすい読者をともにひきずってゆく。俳句も立派な言葉の仮構で成り立つ世界なので、句集にはその種の牽引力がある。いつのまにか、引き込まれる宇宙人との交歓シーン。ひどく特異な(むしろばかばかしい)場面なのにそのような不思議な気持ちになってくる。
 閑話休題
 すこしずつ本書の琴線にふれつつあるのだが、もう少し、前置きを。
 景色(landscape)。風景(sightseeing)、景観(scenery)、光景(view、sight、spectacle)、と。これらはそれぞれ微妙に違うあらわれかたをする「景」の観念だ。英語でもどういう種類の「景」にどういう単語を当てるかは、あまりはっきりしていないようだ。いずれも、光にあたって浮かび上がる事物の輪郭、そのニュアンスに関わる語彙が「景」である。「景」の文字には「光」の意味がある。光をうけて輪郭や色彩が明らかになった外界の姿を「風景」と言う。ネット上の或る記述に従うと、「風景」と言われる場合はビジュアルな客観性が強く、「景色」といわれるときには精神的なニュアンスが強い、(はっきりこうと決めすぎるとまたわからなくなる)。「景観」はドイツの地理学の言葉からの翻訳「lands chat」であるが、地理学に用いられるときに、自然景観、文化景観などと使われる。この言葉を使ったドイツ語の文章が和訳されると、「景色」「風景」、「景観」、「田舎」などそれぞれの文章に会うような日本語が当てられている。と、こんなことが改めてわかったことも句集『景色』のおかげである。
 「景」のありようは、観るものの意識がふかく関わってくる、こちらがそう決めるから、風景は発見され、景色や景観になるのだ。

 ともかく、この句集では、それらを総合して、「景色ーLANDSCAPE」が発見され、ひとつの新鮮な近未来の風景が展開されている、というのが、私の読みの方向感覚である。

1 あだしのをはだしで・・


最初に例を挙げてみる。一種の過去景なのだが、どうも歴史時間の遠近が狂っているように見えてくる。望遠鏡をのぞいたときに入ってくる世界のように。
  化野ははだしで行くにふさはしい  p049《怪雨》
 りえには、京都嵯峨野の「化野(あだしの)念仏寺」の景色はこう見えている。この土地は、古くから広大な墓所で八千体の石仏や石塔がある。またおのずから、あの世この世の境を歩く人影がさまよう場所である。
 生と死の臨界に位置するとどういう句を読むのか、有名辞世句とされるものでは
  旅に病で夢は枯野をかけ廻る 松尾芭蕉(元禄7年10月8日作『笈日記』)
  人魂でゆく気散じや夏の原 葛飾北斎(嘉永2年4月18日(1849年5月10日)
 がある。りえもこの過去景に似た感慨をいささか引きずってはいる。しかしりえの俳句は妙にあっけらかんと無責任だ。
 「化野(あだしの)」から「はだし」が呼び出されていることを、鋭敏な読者はお気づきだろう。この連想ゲームから、放浪好きの少女のスキップのような軽い遊び感覚が生まれる。軽快にあの世の出入口をスキップするのである。明暗が入れ替わり、虚実の場面も入れ替わる。このようなちょっとした仕掛けが随所にある。そのため、彼女の場面設定やそこに時空にただよう気配を、像にまとめようとすればかならず視線の撹乱をきたす。八千体の石仏がならぶ化野にはだしで踏み込んだら、とんだ怪我をしそうである。大事なことをこともなげに軽くいうことに、人は抵抗を感じるものだけれど、死ぬってそんなに大したことではないのよ、と あどけなく少女はスキップで駆けさってゆくのである。そう考えると、芭蕉の「夢」も、北斎の「気散じ」も後世が持ち上げるほどのものではない、私達が人生の一瞬にちょっと出会ってしまう「あの世」の入口の景なのであろう。しかし、一歩でるか出ないか、視線の向きを変えるかどうか、で景色はガラリと違ってくるのである。

2 箱庭の大きなものが小さくなる


  箱庭も棲めば都といふだらう  p019《七人の妹たちへ》
先に望遠鏡の世界と私は書いた。掲句にはその遠近の感覚が働いている。或いは、写真の接写や老眼鏡を外した歳、焦点を取り戻そうとする虹彩の混乱。すなわち意識の混乱。
  しぼられてあはきひかりの世となりぬ  p115《柑子を掲ぐ》
 「箱庭」は、ミニチュアを用いて、小さな箱の中に一つの景色、人工の自然をつくるものである。イメージが自然の姿をなぞって作られるものであったとしても、本人にとっては自分なりの世界像のモデルの表現〈創作〉である。それは、江戸時代に流行った盆栽などに似ている。でき上がったそれは自分の理想郷なのだから、そこに思い入れして棲み着こうという奇特な少女や浮浪者がいてもそうおかしくはない。見方によればわが俳句ランドも箱庭みたいな夢見られた小宇宙だろう。あたかも花谷清が桜をもって形容したように、そこには「時間」が束ねられている、「空間」が折り畳まれている。ユング派の精神科医である河合隼雄は、それを精神医療の場に取り入れた。「箱庭療法」といわれている。
 意外に思ったことは、作者佐藤りえは、「棲めば都」という広く使われていることわざが活きる精神の深さを的確にまた楽しく受け入れているのだ。身の丈にあった環境に適応するための、過去から守られている庶民の生活美学を、俗世の重要事としてよく理解できる人なのだ。そこは、私が感心したところである。
 ともあれ、「箱庭」>「都」、「箱庭」=「都」、実際の寸法は「箱庭」<「都」である。遠近、大小、模型と実際の空間、頭の中で大小の置き換えがなされてくる。この入れ替え句の中で行われる入れ替えの動きが楽しい。
 よく見ると、この句は。文法的に見ると複雑な入れ子構造になっている。
 見えない「誰か」が主格であること、その動きに則って、「箱庭」世界をもう一度箱の外の界にもどしてゆく見えない主格の操作。「誰か」が棲む大きな「都」を、そこに嵌め込むのである。大から小へ帰るたびに世界の内部と外部は入れ替わり、次元の転換がおきる。
 もう少し考えてみる。まずこの俳句の主語は二つある。
 ◎主語を「私」と考えた場合、さらに二つ読み取れる。(この場合は身辺の風物詩、「小景」に近い。が、近景と遠景を圧縮した大景のスケールとなる。)
  ・(私は)、この箱庭に入り込んで「箱庭も棲めば都」と、(こういうだろう)。
  ・(私は、この「箱庭」を外から見ながら思う)。「箱庭も棲めば都というだらう」、(と。)
 ◎二つ目には、「箱庭」が主語だが擬人化されている。「小景」
 (箱庭は)新しい住人に、「棲めば都だよ」、といってくれるだろう。
 ◎三つ目に、いわゆる「It」。作品の外からの包括的叙述。(「大景」が生まれる)
 ・「箱庭」とはなにか。それは眼前に置かれたら、「棲めば都」と喋りだすような、ごく小さな場所のことである。
 誰が言っているのかけっきょくわからない。巨大な宇宙神の俯瞰のもとでは、地球もそういう箱庭にひとしい。それがまさに、佐藤りえが駆使している思考の詐術、あるいはレトリックの妙というべきである。

3 宇宙という環境→佐藤りえの「宇宙俳句」


 位置の置き換えによって結果的に生じてくる撹乱という例にはにこういうのもある。
  ロボットの手をふる庭や系外銀河  p024《夜伽話》
 地球は巨大な銀河系宇宙「天の川銀河」の中のさらにちっちゃな惑星。何千何百それを遥かに超えた星の集まりがぽこぽこ浮いているのが宇宙である。「系外銀河」とは、我が地球が属している「天の川銀河」ではない、その外側にある別の銀河系のことである。そして、その系外銀河の一つの星へ(あるいは星から)、ロボット〈がいたとしてもおかしくない〉が手を振っている。おたがい庭に立って手を振る。向こうから見たら(見えないはずだが)、「天の川銀河」もその中の地球も、ちっちゃな庭も、我々がいう「箱庭」より微小だ。この「庭」は、「系外銀河」のどこかにあるかも知れぬ「庭」でもある。
 しかし、じつはこの題材は根拠のないナンセンスなものではなく、天文学上の最近の発見からきている。系外銀河の一隅に、地球によく似た七つの惑星が発見され《七人の妹たち》と名をつけられた。メディアを賑わしたその話題からこの句集の一章が作られる。むしろこの句集のテーマともなっている。続く《夜伽話》の章も同じ着想、同工異曲のものであろう。りえが云う「景色」とは、二十一世紀の地球人と宇宙人が出会うあたらしい世界の「箱庭化」なのかも知れない。そして、系外銀河に棲む「妹たち」の庭もいずれは「棲めば都」になるのだ。
 ところで、私の先師、和田悟朗は科学者であった。そのせいか、地球とか宇宙、惑星の語彙をもちこんでたくさんの句を残した。理科系しかわからぬ専門用語ももふんだんに出てくるので、語彙の難解さから来る意味付けの難解さに閉口することがあった。
  地球儀にわが町見えず大晦日  和田悟朗 『風車』p046《Ⅰ 木 春の草》
  野に遊ぶ静止衛星から見られ    同   同  p058《Ⅱ 火 舞踏》
  なずな摘む太陽系のさびしさに   同   同  p126《Ⅲ 土 観覧車》
「地球儀」はまあいいとして、「静止」とは物質の「静止」に特別の学問的意味があるのか?「太陽系のさびしさ」などとくればやっぱり考えるし、敬虔で深遠な気持ちになる。日常ではあまり使われない専門用語と科学的な概念をふだんの自然体の生活感覚と融合させるレトリックである。というより、習性となった科学者の思考や感覚からくるのだから、そのずらし方に気がついたら、そう難解ということでもない。それに一人の市民として戦争体験、阪神・淡路大震災の体験など、彼はむしろ自分の日常を正直に俳句にしてきたのだ。
 ただし、俳句の中での宇宙的視野の堅持と開拓という意味では、和田悟朗は他の俳人に抜きん出ていた。テクノロジー時代の俳句のパイオニアでもあったと思う。私が思うに、りえ俳句は、科学という位置からではなく、その問題意識を引く「宇宙俳句」である、テクノロジーが一般に流通し広がってきた結果の現在の文化を吸収謳歌しているのである。このような学者風の日常詠で、地球の景色を描いているのではないとしたら、では、私は彼女のどこが宇宙的なのだろう?
 句集『景色』には、彼女独特の「フィクション」(?)の世界が現れる。高名な学者が俳人であった以上に、彼女の宇宙への関心は深く好奇心に満ちている。そのような新しい年代の俳人の登場には存在感がある。

4 小さなものが大きくなる


 位置の転倒や大小の入れ替え、それへのこだわりは、次の句にも現れている
  アリスほどに憂き妹のかひやぐら  p015《七人の妹たちへ》
  海市見てより絵のなかに潮鳴る   p023《夜伽話》
 この「妹」を無理にかの星の「七人の妹たち」のことだとは思わなくてもいいのだが、とすれば登場する妹「アリス」、この像はなんだろう。もちろん『不思議の国のアリス』が考えられる。まだ幼さが吹っ切れないのに、なぜか憂わしげに「貝櫓」(蜃気楼のこと)のなかにいて遠くはかない目でこちらを見ている。「妹」である異形の存在が「かひやぐら」なのか、そこにいるちいさな影が妹なのか?しかとはわからぬながら、遠くにいながらかくも親しく結びついてくる。そして、「海市」(貝櫓=蜃気楼)を見て家に帰ると、絵のなかに浮かぶはてしない海の風景、潮鳴りさえ響いてくる。壁の絵があの海市(蜃気楼)のようにも思える。様々な次元移動のきっかけの一つだ。
 これら、小さな小さなもの(この場合「妹」)は、自分の幼児体験への遡及とも言える。おおきな遠い世界への入口である。いやその中に既にはいりこんでいる。
  靴を縫ふ小人の針のクリスマス  p059《雲を飼うやうに》
 小人の小さな靴を縫う繊細な針。さらにちっちゃな針の目、そこを通る糸の道を通って。そのような存在をも救うために主は来ませり。クリスマスを扱った連作中の一句。
 さらに、小さなこの世界にもときに惨劇は起きる。
  りりやんの穴に落ちしは春の蠅  p010《犬を渡す》
 リリヤン編みには専用のツールがあり、子どもにも簡単に筒状の紐を編むことができる。その網状の紐のさらに細い煙突の輪の穴の真ん中に、早々と生まれてしまった蠅が落ち込むのである。たおやかで柔らかな羽と胴体が華麗な筒の檻の中でもがいている・・。美しい糸で編まれた細い牢獄。少女ならではのアモラルなありえない残酷な遊び。自分のある時期の状態をこのように回想しているのだろうか?りえさんは、喜ばしいことに有季無季を自由に自在に使いこなしていて、これは「春の蠅」、季語として効果的である。華麗な蝶などではないところもいい。こういう句の中に、俳句本来の形を感じ取ることができる。
 小さなものが、ありえない場所に蝟集する異様な光景がさらにあらわれる。
   生きてきてバケツに蟻をあふれしむ  p051《怪雨》
 何の理由なのだかおびただしい数の蟻をバケツにとじこめてあふれるほどなのだ。逃さないための苦労も偲ばれる。同時にこんな不気味なザクザクした光景を見せつけられると、今まで生きてきたものたちの存在の影も重く浮かんでくる。例に上げた幾つかの句では、身辺の微小な事物と、想像力の駆け巡る内面をむすびつけ、寓話としてのファンタジックな景色が開かれていることに気がつく。
  茫茫と遠出する蟻地球縮み  悟朗 『風車』 p116《Ⅲ 土-観覧車》
 また比較したくなるのだが、和田悟朗のこの句を読むと距離感や大小の認識が混乱して不思議な気分になる。人間から見ると数メーターの距離であっても、ひたすら獲物を目指して進むあの小さな小さな蟻の認識のうちには、遠近の自覚もない。が、蟻の実速から考えると、人間が地球をひとまわりする距離ではないか、と悟朗は考え、蟻のごとくぼうだいな距離を歩いた気になり、この地球の距離もずいぶん短く(すなわち地球が小さくなって)「地球縮み」と納得する。距離の単位を替えてゆけば、この種の科学的な推論と、非科学的に見える幻想の飛躍は、つまり和田悟朗と佐藤りえの認識世界は、すごく近しいものとなるのではないだろうか?

5 宇宙がだんだん近くなる


句集『景色』には、この悟朗の場合とはちがうのだが、百科事典やWikipediaで検索しなければわからない特殊な「専門用語」がかなり出てくるので、私は困惑する。SF小説やアニメのヒーローに通じていないからだ。
  星人に花冠のやうな木漏れ日よ  p008《犬を渡す》
 この「星人」てなんだ。「星の王子さま」の成人式だろうか?と一瞬オバアギャグもでてくるのだが、ともかく人間に似た姿をしているが地球人ではないいわゆる宇宙人のことだろう。(もっとも、「星人」は、周りの人たちと違い変わった地球人にも比喩的に使われる)。
「ウルトラマン」シリーズに登場する宇宙人のなかで、最強最悪とされるのが、メヒィラス星のメフィラス大魔王とその眷属や配下の獰猛な闘士達。伸長六十メートル、体重二万トン、IQは一万という剛のものもいる。これらメフィラス星人は地球制覇を狙う悪質星人である。彼らはつねに地球壊滅をねらって潜入しているのらしい。その星人が森の中に突っ立っている。高い枝から漏れてくるれる日差しが花の冠のようにかぶさっている。悪質宇宙人であってもこの姿は神々しい。メフィラス星人には「らっきょう」が好きな輩もいる。悪者であっても地球の食文化には馴染んでいるのだ。
 食材も開拓されて豊かになってゆくだろう。
  揚げ物にしてよしアラクニド・バグズ  p022《夜伽話》 
  アストロノート蒟蒻を食ふ訓練  p028《まるめろ主義》
 「アラクニド・バグズ」。これは、ギリシャ神話にアラクネーなる傲慢さ故に蜘蛛にされた人間の女が出ててくるので、そのアナロジーだろう。映画「スターシップ トゥルーパーズ」に出てくる邪悪な昆虫型宇宙生物、蜘蛛に似た容姿である。それは、海老フライやタラバガニの天麩羅よりも美味しいだろうか?老人食には向きそうもないが。佐藤りえ家の食卓の定番メニューらしい。
 平成が終わる現在、俳句の素材は宇宙規模に広がっている。山口誓子が「俳句素材の拡大」を主張し始めたときも似たような拒否反応が現れた、新興俳句の出発なのであるが、俳句の素材は宇宙規模に広がっている。現代は、あたらしい新興俳句の勃興期なのだろうか?平成が終わる現在、新しい素材の拡大が行われている。

6 さらに、ナンセンスになる地球の景色


 以上は宇宙生物キャラクターになりきりの俳句を紹介した。以下はナンセンスファンタジー。これらは取り合わせのセンスで良し悪しが決まってくる。
  かぎろひに拾ふ人魚の瓦版  p010《犬を渡す》
 「人魚の瓦版」とは、人魚の世界で流通している瓦版、または人魚について書かれてある瓦版。「瓦版」とは、江戸や明治の初期に版木で刷り増まして往来で立売した新聞みたいなものだ。「かぎろひ」は、私の覚えでは、春昼のあのゆらゆらした陽炎のことか?
 いまひとつは、万葉集に出てくる日の出のときに野原が赤く染まるあれか?
東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ 柿本人麻呂〈万葉集。巻の一.八十四)
しかし、好みとして、筆者は、「かぎろひ=陽炎」でいただく。後者の「かぎろひ」でも悪くないが、山のなかの吉野郡大宇陀町の「かぎろひの丘」に人魚が出没するには少し無理がある。瓦版と云うなら、江戸市中での見世物小屋などのファンタジックな世界を喧伝していただろう当時のジャーナリズムのことを想像する。
 それから、こんなのはどうだろう。 
  花過ぎて檻に唐獅子居眠るを  p011《犬を渡す》
「唐獅子」はもともとは、中国で生まれた獅子に似た霊獣のこと。屏風絵、刺青の図柄に大変人気がある。「花」(ここでは桜花ではなく牡丹)の季節が過ぎれば、唐獅子だけではインスタ映えしない。侠客達が、次の牡丹の季節に仁義を切るための出番を待っている間、入れ墨の背中から取り外して檻に入れて飼っていたら、唐獅子も退屈して居眠りしているという光景。漫画的アイディアとなりゆきも、言われてしまえば理屈があう。筋の通すための説明を考えていると可笑しい。
 これら、奇矯な素材を頓智や機知に持ってくる書き方は、わかりやすいだけに、お笑いタレントばりに、笑いのツボをどのあたりにおくのか、という工夫が、良し悪しの分かれ目だ。

7 なんてことない説明や述懐につられて微妙な深みにはまる


  つぎの世へ何を連絡する係  p074《麝香》
 なんのために私は来世にタイムスリップするのでしょう? 確たる映像も羅針盤もない転生、妄想的使命感が次の世でいきるためのエモーションとなる。
  中空に浮いたままでも大丈夫  p079《大丈夫》
 敢然と宇宙旅行に乗り出したものの、ふと、無防備状態で中空に浮かんでいることに気がつき恐怖している。大丈夫大丈夫よ、たぶん・・。
  まるめろや主義があるんだかないんだか  p030《まるめろ主義》
 このようなずらし、彼女の得意のテクニックである。香りのいいマルメロを嗅ぎながら、いいよどっちにでもまるめこんでしまえ、と考えている。この句自体、批評性があるんだかないんだか。
  黄落やひとでゐるのもむづかしい  p088《空船》
 地球に帰化した宇宙人の戸惑い、若い女性、古希を越えた老女、みな似たような煩悶を抱いているものだ。「黄落」という季節の現象が華やかでわびしい風情を呼び出す。降りしきる黄葉のもとではいろんな感慨にふけることもうなずけるが、何も「ひと」である必要などないではないか、と物想うところ、いささか奇矯でありまた深刻なのだ。
 このような存在の不安を捉える感覚が繊細でするどい。不安定さや不安に耐えて、ここをもっとおさえて欲しいものである。

8 風景の発見 表現としての景色


  ここへ来て滝と呼ばれてゐる水よ  p084《大丈夫》
 川は流れて、ある地点にきてまっさかさまに落ちはじめる。途端に「滝」と呼ばれ、名勝の景観ともなる。地形の変化が水の状態を変える。そこに名を与えることで、あらたな「景色」がそれと自覚される。景色とか風景がそれと自覚されるには、地形や地勢の変化とそれに気がつく視線の革命が必要なのである。
  過激とは風景竹が雪折れぬ  p114《柑子を掲ぐ》
 よくしなる竹でさえ大雪のために折れてしまった、その激しい変化を「過激」だという言い方が面白い。「風景」それ自体はうごかない。しかし、ただの静止状態から「過激」に突出して存在主張をする。それはいわば自然現象に生じている差異の発見なのだ。自然体を逸脱するのも自然のことわり。その「過激」さを見つける視点こそ、とりわけ俳句には必要とされている。
 閑話休題
 佐藤りえの観る景色がリアリティを持つには、またしても悟朗の先行句がある。
  鏡薄し前に後ろの冬景色   悟朗 『風車』p082《Ⅱ 火-舞踏》
  冬景色歩き止むとき景終る   同  p178《Ⅴ 水 風来》
 実際は後ろにある景色が鏡にうつっているから眼前にある。鏡の中に入り込めそうに薄い。「鏡薄し」のところにこの人の、科学的理屈をこえようとする文学的理屈への志向がある。あるきやめる(見ることをやめる)と「景色」は何も主張しなくなる、こんな句をのこした和田悟朗は風景の虚実に身をおいた詩人だという気がする。対象世界が自分に帰ってくる瞬間をみつづけ考え続けている。
 そして、今もっとも新しい地上の風景句、大景句を見てみれば、私にいわせれば、それは高山れおなだと思うのである。(朔出版2018年12月7日)
  これがまあコンスタンティノポリスの夕焼けなる  高山れおな
       句集『冬の旅、夏の夢』  p010《イスタンブル花鳥諷詠》
  星月夜写真に撮れば渦を巻く  p063《乙未蒙古行》
    システィーナ礼拝堂
  宇宙劇寒暮口あけ仰ぎしは  p071《ローマにて》
  ルンバはたらく地球は冬で昼の雨  p101《みな死んでゐる》
  混じりあふ食魔の息の白き巷  p133《食魔たち》
 この旅吟集は、非常に優れている。
 しかし、彼にしても先に上げた風景を読む俳人たちも、地上の旅人だ。地球を出ないまま宇宙を見上げ、カオスを夢想している。
 いまのところ佐藤りえのみが、敢然作中の存在になりすまし宇宙に飛び出している。宇宙人の一人として、そとから地球を見ている。そのスタンスが特異である。アニメ世代が作り上げたアイデンティティというべきだろうか?そこのところは私にはまだわからない。

9 章立ての過激さ—ドラマチックな景色


 面白がっていてもキリがないことに気がついた。もう一度目次を読む。
   句集『景色』目次
犬を渡す・七人の妹たちへ・夜伽話・まるめろ主義・地球惑星・バスに乗る・怪雨・雲を飼ふやうに・団栗交換日記・麝香・大丈夫・空船・歌ををしへる女・替へ釦・銀を噛む・柑子を掲ぐ・望郷篇・ハッピー・エヴァー・アフター・あとがき
 全部並べてみるとどれも物語性がつよい。ここですでに短編小説集のように連作群の「景色」が展かれる。この目次中の一句一句がお互いに関連付けられてくる。その一句一句は奔放にドラマの世界を異星人のように動き回っている。舞台は紛れもなく地球をふくめた「宇宙」という場所だ。面白く読み終わると、
  その後の幸福といふ花疲れ  p125《ハッピー・エヴァー・アフター》
 とちゃんと落ちまでがつく。
 佐藤りえには、アニメやファンタジーで培われたユニバーサリズム(汎宇宙主義)というべき世界観があるのだろうか。好奇心が強くてかなりアモラルな現代のアリスがくりだす機知の氾濫、系外銀河の庭にもこの地球の箱庭の中にも、彼女のいう「過激な」風景がひそむらしい。
 だが、アモラルの根底には過激なほどの地球生命体の営みへの感傷や執着をみとめる。
彼女が、どんな景色を見たのか、ということも楽しんだが、それより、いまの日本の文化の一現象として動き回る「佐藤りえ」という若き女性俳人の存在というものに目を惹かれたのである。(了)

 筆者註
・引用句色分け(佐藤りえ句の引用句は橙色、以外の引用句は赤色で記入。)
・引用句出典
佐藤りえ句集『景色―LANDSCAPE』(発行:六花書院/発売:開発社2018年11月27日)
内藤鳴雪『内藤鳴雪句集』(博文堂1909年)青空文庫にて参照。
  (底本「現代日本文學大系95 現代句集」筑摩書房1973年9月25日初版第1刷発行)
筑紫磐井 筑紫磐井句集『我が時代 -二〇〇四~二〇一三-〈第一部 第二部〉』(実業広報社 2014年3月31日)
花谷清 句集『球殻』(藍叢書48 ふらんす堂 2018年5月24日)
松尾芭蕉の辞世句(元禄7年10月8日作『笈日記』)出典:山本健吉著『芭蕉三百句』(河出文庫)
葛飾北斎の辞世句(とされる。グーグル検索数箇所の結果、没年を採用)
和田悟朗 句集『風車』(角川書店 2012年3月25日)
高山れおな 句集『冬の旅、夏の夢』(朔出版 2018年12月7日)

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