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2019年1月11日金曜日

【麻乃第2句集『るん』を読みたい】7 識と無意識と  川越歌澄

 恋多きキリンの母よ夕立風

 一度ご一緒した動物園にはキリンがいた。数頭が暮らすその中で、生れてひと月ほどの赤ちゃんキリンと母親が別な区画に隔離されていた。梅雨の迫る湿った空気の中、静かに静かに草を食んでいた。掲句が実際のキリンを詠んだものかは分からない。「雌」ではなく「母」という語の斡旋は、子を産んだばかりのキリンにオスが寄って行ったさまを詠んだのか、もしくは人間を暗示しているという可能性も考えつつ、季節は違うがあの時の親子の姿を思い出した。
 野生のキリンは群れで暮らしている。繁殖期にオスが一頭のメスの周りに集まってくると、メスはおもむろに歩き出す。延々と歩く。オスたちはメスの後を追うが、徐々に一頭また一頭と脱落して数が減ってくる。最後までついて行った一頭が勝者だ。毅然とマイペースなキリンの姿が、ちょっと作者と重なった。

 麻乃さんは楽しくお喋りする人だが、いつもここではないどこかを見ているような気がする。

 鳩吹きて柞の森にるんの吹く

 チベット仏教における「ルン」は「光明としての心の乗り物となる微細なる風。生体エネルギーのようなもの(ダライ・ラマ法王HPより)」だそうだ。
 ぼーっという鳩吹きに呼応して柞の森で「ルン」が起こる。それは異界からの風のようでもあり、「気」の流れを思わせるものでもある。柞(=コナラ)の樹は実を落とし、葉の色を変え、森の刻が動いていく。作者は「こちら側」に身を置きながら、そうした深淵の気配を読み取ろうとしている。時間差と距離感が好い。
 句集『るん』に於いて、作者は自分の外部と内部、あるいは意識と無意識との間に流れる時間や空間の揺らぎを、包み隠さず見せているように思う。
 
 爽やかや腹立つ人が隣の座
 爽籟や神楽の撥の揃ひ出す


 上の二句が隣り合っているのを見て面白いと思った。
 
 枝垂梅驚く口の形して
 アネモネや姉妹同時に物を言ふ
 足遅き群衆にゐて春夕焼
 髭男ざらりと話す夜店かな
 蛇苺血の濃き順に並びをり
 生御霊見舞うて直ぐに叱られて
 赤坂は誰の街なる野分後
 病床の王女のごときショールかな
 狐火やここは何方の最期の地
 冬ざれや男に影がついてゆく


 上記のような句に惹かれた。「あっ」と思って一呼吸に出来たような句に、詩性を感じた。
 作者の眼を通すと、枝垂梅や蛇苺が急に笑い出したり、雑踏を歩いているうちにいつしか影が離反したりしそうだが、決してファンタジーに走ってはいない。第一句集『プールの底』からも受けた印象だが、たとえば家族のことなど、感情が激しく動かされるような事態に際しても、というかそんな時の方が、怖いほどに冷徹な作者の視線を感じる。勿論それは愛情が無いといっているのではなく、事象を受け止めて句に昇華させるという詩人の資質を、作者は持っているということなのだと思う。
 時に俳句としてはナマすぎるのではないかと思われる作品もあるが、ことばを飼い慣らす必要はない。独自の境地を、どんどん深めていかれることと思っている。

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