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2018年9月28日金曜日

【新連載・辻村麻乃特集】麻乃第2句集『るん』を読みたい・はじめに

はじめに
 辻村麻乃第2句集『るん』が上梓になり、「俳句新空間」で特集シリーズの第4弾として取り上げることとした。このシリーズは、若くして句集を上梓したのもかかわらず、結社の事情で特集を組まれない恵まれない作家のために、BLOGで無制限に批評を進めてもらおうという趣旨で始めたものである。その一部はアーカイブにもなっている。今後の作家論の参考資料にも成るはずである。
 ただ、「恵まれない作家」という言葉が気に触ってか、余り申し出が来ないのだが、若い作家は大体恵まれない作家なのだから大いに申し出て欲しい。辻村氏の句集『るん』は、「俳句界」編集長であった林誠司氏が起業した俳句アトラスの創業本といってもよい。新しい俳句出版社は、若い俳人たちにとてもありがたいことであるから、非力ではあるがこれが何らかの支援になれば幸である。
 今回の句集は、実は私が序文を書くことになり、ちょっと変則的だが第1回は私の序文をそのまま掲載することとした。依頼した作品鑑賞は第2回から始まることになる。
滅多に句集を眼に触れることがない人々に句集を選ぶ指針となるような記事と成れば幸いと思っている。ご愛読いただきたい。


   序文・感想文
               筑紫磐井

 僕が送ってもらった第一句集『プールの底』では、いまより若いはずだけど彼女(辻村麻乃)はもっと年を取っていて、不思議な町に住んでいた。常識も通じない、言語も通じない、全くの異邦である。俳句を詠んでいると見るから読者とはつながりがあるように見えるが、それがなければ気持ちのつながりさえ感じられないかも知れない。

 ばたばたと死に際の蟬救へない
 長き夜が暗くて深い穴となる


 こうして一生異国に棲んでいると思えた彼女だが、第二句集『るん』では、やっと父母の国日本に戻り、若返って、幼くなって僕の隣町に住み始めた。

 電線の多きこの町蝶生まる


 確かにこの風景は日本だ。しかし、まだ成田に降りたばかりで、そのまま真っ直ぐ渋谷に連れられてきてしまった女の子の目を感じる。

 やがてこの子は、隣町から越境して僕の学校に入学してきた。事情は知らないが、風が吹き、窓ガラスがコトコト揺れる、変な日だった。偶然この子は僕と同じクラスになり、僕のとなりの席をもらう。先生は「遠い国からやってきた子だからみんな仲良くするように」という。不思議なことに教科書も持っていない。「教科書もない国から来たの?」と聞くと笑っている。ノートをのぞくときれいな字でこんなことを書いている。

 肯定を会話に求めゐて朱夏
 出目金も和金も同じ人が買ふ
 夏帯に渡せぬままの手紙かな
 日本地図能登を尖らせ秋麗
 夜学校「誰だ!」と壁に大きな字  
 アネモネや姉妹同時に物を言ふ
 病床の王女の如きショールかな
 狐火やここは何方の最期の地
 我々が我になるとき冬花火


 外国から来た子(帰国子女)は、別に差別するわけではないけれど、どこか不思議な世界を持っている。この子は特にそうだった。僕たちの日常持っている回路と、どこか分からないが外れている。間違っているわけでもない、悪いわけでもない。ただ話をしていると、同級生のだれかれと通じる話が、この子と話しているとふっと道筋が消えてしまうのだ。これは僕の方がおかしいのだろうか。この子も同じ気持ちらしく、時折黙って僕の目を見ている。
 ふと考えてみる――この子のいた国はいったいどこだったのだろうか。余り馴染みのない国のようだが、イスラムとか、スラブとか。しかし、馴染みがないと言ってもそういう馴染みなさとは違うようだ。それは肉体と繋がった異邦性だ。もっと精神的な、馴染みにくさがこの子にはある。

 さて、僕に豪放磊落な叔父さんがいた。つい先日、今年の二月二〇日になくなったのだが、特に僕に親切にしてくれた人で、一時さびしい思いをしたものだ。この子にそんな話をしたせいか、彼女のノートにこんなことが書かれているのを見たことがある。

 春嶺や深き森から海の音
 秩父町爆破するごと冬花火


 山奥に住んでいた叔父さんにふさわしいと思った。この子も僕の話を聞いてあの叔父さんが好きになったらしい。だけど、果たしてこの子はあの有名な叔父さんのことを知っているのだろうか。何も分かっていないようでありながら、何でも知っているように思える。不思議な子だった。

 谷底に町閉じ込めて鳥曇
 砂利石に骨も混じれる春麗
 午前二時廊下の奥の躑躅かな
 珈琲粉膨らむまでの春愁
 仮紐を幾度も解きて月朧
 燕の巣そろそろ自由にさせやうか


 ある春の風のつよい日、僕は学校に出かけるとき、あの子はもういなくなっているような気がした。どこかでそんな話を読んだ記憶がある。お父さんにつれられて、遠い町に行ってしまうのだ。
 しかし教室の戸を開けると、その子はちゃんとまだいて、笑いかけた。そしていつも書いているノートを僕に渡して、読んでもいいと言った。題名のないノートには、いま見てみると、新しく題が書かれている。「るん」とあった。
 だから僕は今日それを持って帰って、感想を書かねばならない。

 いまノートを読みながら僕は全然別のことを考え始める。以前考えた、あの子のいた国は、国境のある国ではなかったのではないか。もっとこころの国だ、言葉だけから出来ている国だ。あの子は詩の国から来たのではないか。僕の叔父さんは、俳句の国の王様だといって威張っていたが、日本に住んでいると俳句の国の人間となってしまうのだ。だからあの子は、詩の国から俳句の国へやってきてとまどっているのだろう。――いやそうではない、俳句の国に住んでいる僕たちが、自由な詩の国からやってきたあの子の言葉を見、あの子と話をしてとまどっているだけなのだ。
 さあ、明日どんな感想をいえばいいのだろう。教科書には何も書いてない、教科書なんてないのだから。いま考えているこんなことを言っても、やっぱりわけがわからないといわれるかも知れない。また明日も風のつよい日になりそうだ。


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