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2018年9月14日金曜日

【抜粋】〈「俳句四季」9月号〉俳壇観測188/俳壇観測・三つの協会のおいたち――何を基準に協会は別れ、存在しているか   筑紫磐井

 俳人協会に入会した若手の無季句がこのところ目立つという批判が出ている(「群青」二月号)。確かに無季俳句を含めた俳人協会員の句集がこのごろ多く出ている。
 「協会の成り立ちを知れば、無季の句は歓迎されないことが分かる」というのだが、残念ながら協会の成り立ちを知っている人は全て死に絶え、間接的にしか語られていない。若い人たちが協会の成り立ちを知らないことをあながち責めるわけにはいかないだろう。そこで今回は、若い人たちのために、協会の成り立ちをたどってみることにしたい。

「どうして三つの協会が出来たのですか」――現代俳句協会と俳人協会

 現在俳壇には三つの協会がある。現代俳句協会、公益社団法人俳人協会、公益社団法人日本伝統俳句協会である。このほかに国際俳句交流協会があるがこれは国際交流という機能に特化しているからここでは触れない。
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 (現代俳句協会に関しては省略)・・・昭和三〇年代の社会性俳句、造型俳句の隆盛とともに、草田男と兜太――創設グループと戦後派世代の対立が激しくなった。特に季語をめぐる論点は激しく対立した。遂に草田男は昭和三六年末、現代俳句協会幹事長を兼ねたまま俳人協会を発足させ、現俳協から幹事長不信任を受け退会している。
 発足した俳人協会は、発足当時の幹事を見ると、草田男等の人間探求派、三鬼等の新興俳句の作家(現代俳句協会の創設メンバー)に加え、元日本文学報告会俳句部会の主要幹部であった秋桜子、風生、飯田蛇笏等が復活しており(既に虚子は亡くなっていた)、一方戦後作家は角川源義ただ一人であった。現代俳句協会の創設メンバーと文学報国会幹部、角川書店の三者協同により、戦後派作家を排斥する形で発足したと見ることが出来る。
 このような経緯から、現代俳句協会は無季派と有季派が混在し(現代俳句協会の『現代俳句歳時記』では無季の部立てが存在している)、俳人協会は有季の作家が圧倒的に多い。にもかかわらず、俳人協会定款(根本規則)では無季を排斥してはおらず、むしろ無季排除はその時々の会長の政策と見るべきかも知れない(俳人協会会員の林翔、岸田稚魚らはアンケートで無季容認と回答している)。例えば、松崎鉄之介会長時代は、有志作家による形で、俳句教科書出版社に対し無季俳句を教科書に載せないように強く要請している。

「どうして三つの協会が出来たのですか」――日本伝統俳句協会

 創設時の俳人協会事務所は角川書店内に置かれた。これに伴い、角川書店と現代俳句協会の蜜月時代は終了し、対立時代に入ったのである。しかし、やがて牧羊社(総合誌「俳句とエッセイ」やシリーズ句集で一世を風靡した)という第三勢力出版社の登場等に伴い、こうした対立は輪郭がぼやけてきた。特に「俳句」の名編集長秋山みのるによる「結社の時代」キャンペーンによりこうした対立図式がほぼ崩壊したのである。
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 この時期に前後して登場したのが、日本伝統俳句協会である。稲畑汀子氏が中心となり、俳人協会よりピュアに、伝統俳句とは「有季定型の花鳥諷詠詩」であると定款(根本規則)に宣言して発足した。虚子によれば花鳥諷詠では、四季以外には社会にも関心を持ってはならないこととされるから、俳句の範囲は俳人協会のそれより一層狭く、かつ求心力を高めたものとなった。
 きっかけは朝日俳壇選者に新しく金子兜太氏が就任したことに伴い伝統俳句の未来に危機感を持った稲畑氏が協会の設立を決心したことにある。これに対し、支持を示したのが三笠宮殿下、更に協会を公益法人化することを強く勧めたのが塩川正十郎文部大臣であった。大臣の指示の下、高石文部次官(後日リクルート事件で逮捕)等の文部官僚の積極的協力により、六二年九月に審査開始、反対投書があったものの、いち早く六三年一二月二一日には認可を受けている。当時の文部省の文化普及課長は、法人化は最低三年かかるが、ホトトギスが後ろ盾にあること、大臣からの申し入れもあり、例外中の例外として早期に認可するといっている(『大久保武雄―桃青―日記』平成二三年北溟社刊)。同業種で公益法人は一つしか認めないという不文律にもかかわらず公益法人認可が行われた。ここに稲畑氏の尽力で、「有季定型」が恣意的にではなく、公の文書として初めて認められることとなったのである。

 ※詳しくは「俳句四季」9月号をお読み下さい。
 

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