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2017年5月26日金曜日

【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】麒麟の目/久留島元


よく「見ている」作家である。

 踊子の妻が流れて行きにけり
 友達が滑つて行きぬスキー場
 春風や蛸捕る舟が次々と

また、よく「見られている」作家である。

 文鳥に覗かれてゐる花疲れ
 角隠し松の手入に見られつつ
 喘息の我を見てゐる竹夫人

傍観者然たるその視線は、祭りの中を流れていく「妻」と、蛸を捕る海上の「舟」を、まるで同じように、淡々と眺めている。優しいような、おかしいような、しかしそこに「作者」は入り込まない。「踊子」の輪に入ることもないし、「スキー」に加わることもない。(もちろん作品内の話題である)観察に徹した主体は、低温とも感じられる。
その視点は自分自身にも向けられ、ときとして「文鳥」や「松」「竹夫人」などの人外に憑依して「我」を見つめる。
しかもその目にうつる「我」は、どうも必ず弱っている。
弱々しく、他と交じることができない「我」が、「妻」を見、「友達」を見、そして「文鳥」や「竹夫人」に見られている。
相変わらず淡々としているが、案外、自意識過剰なのかもしれぬ。
とはいえ弱々しい姿に似合わず、図太く、日常の幸せを謳歌しているらしい風もある。


 大鯰ぽかりと叩きたき顔の
 山椒魚そろそろ月の出る頃か
 鈴虫を褒め合つてゐる新居かな

その日常は、ほとんど桃源郷といってよい。
思わず叩いてみたくなるほどの「大鯰」、月の出を待つ「山椒魚」、あまり日常に見られぬ生物たちと、作者は楽しげな友だちづきあいをしているようだ。特に大鯰の句など、つきすぎでそのままなのだが、昭和漫画的な間抜けなオノマトペでふてぶてしさがよく出ている。
そしてなにより、言い争いもせず「鈴虫」の声を褒め合う新居の、なんと平和で楽しげなことか。私は作者の、衒いのない日常賛歌が好きである。
ほかにも日常の豊かさを垣間見せる句は多い。


 鯖鮓や机上をざつと片付けて
 夕立が来さうで来たり走るなり
 筋肉を綺麗に伸ばす冬休み

ささいな、まったくささいな日常であるが、「鯖鮓」や「夕立」などのいたって日常的な季語を喜ぶことのできる余裕が、とても豊かでうらやましい。ちょっとした体操を「綺麗」ととらえることができるおおらかさは、他の追随を許さない作者の手練であろう。

 みかん剥く二つ目はより完璧に
 寒鯛のどこを切つても美しき
 太陽の大きな土佐や遍路笠

無内容の、驚きのない日常を、驚きと喜び、余裕に変えられる。いささかの時代錯誤さえ感じさせる、江戸趣味的な道具立て、舞台設定も、やはり桃源郷のような夢を見させてくれる。時代劇的な、一種の郷愁をともなった理想郷である。
虚子や井月など、古今の俳句・俳諧作品に親炙する、作者ならではの技術であると思う。
ただし、作者の世界が、そうした俳句の培ってきた「技術」の延長上にのみ現れるのだとしたら、特筆すべき作家ではなくただ技巧が賞讃されて終わるだろう。 作者の本質は、こうした明るく楽しげな日常賛歌に底流する、辛さ、息苦しさにある。
先に見えた弱々しさもそのひとつだが、今回の句群では病を思わせる句が多い。


 舌の上にどんどん積もる風邪薬
 腸捻転元に戻してから昼寝

粉薬の質感を伝えて余りある、とても苦そうな、飲みにくそうな句。だが飲まねば治らぬ。治れば日常に戻ることできる。「腸捻転」でさえ、戻れば「昼寝」にはいることができる。生き辛いことを、辛いと語る句はない。日常に復する、日常を楽しむ句が、同時にとても生き辛い日常を抱え込んでいるのだ。

 鳥好きの亡き先生や冬の柿
 金魚死後だらだらとある暑さかな

生き辛い日常は、常に「死」に囲まれているからでもある。
生きていることを「綺麗」と呼べるのは、「亡き先生」を思う作者だからであり、
人外の目に成り代わることができるのは生物の「死後」を見据える作者だからである。


 鮟鱇の死後がずるずるありにけり

恐らくこのあと作者は「鮟鱇」の鍋を、美味いとむさぼり喰い、酒を飲んで酔っ払うのであるが、その食事が殺されて「ずるずる」と引きずられた鮟鱇であることを、つまらない理屈をこねることなく、日常の淡々のなかで受け止められる作者なのである。
作者の日常賛歌が「桃源郷」であって、先行する世代の「日常詠」と決定的に異なるのは、作者が決定的に生き辛さを抱えており、郷愁と諦観のなかで仮構された理想郷だからだろう。
作者の直面する生き辛さ、息苦しさは、とても普遍的な、それこそ生老病死の四苦に通じるようなとても普遍的な苦しさである。
だが、きわめて現代的な、人とうまく混じれない、ささいなきっかけで心に疵を作ってしまう、ナイーブな青年像をも垣間見せる。
だからこそ彼の日常詠は美しく、また古典に消費されない特異な個性を光らせるのだ。


 向き合つてけふの食事や小鳥来る


(編集者より。前前号で、「西村麒麟北斗賞受賞評論公募!」として、「本BLOGの読者の中で、西村麒麟論を書いてみたいという方は、本BLOGの編集部ないし西村麒麟自身にご連絡を頂きたい。未公開の150句をお送りするので読んだうえ評論を送っていただければありがたい。」と申し上げたが、事故があり編集部では取り次がないので直接西村麒麟にご連絡ください。kirin.nishimura.819@gmail.com)

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