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2017年2月24日金曜日

黄泉還るふるさと 高野ムツオ「片翅」評 / 竹岡一郎


びーぐる34号(平成29年1月20日発売)より転載


高野ムツオ句集「片翅」(邑書林、2016年10月)を読む。前句集よりも、運命を思索する事において、深みを増していると思う。

声もなく集まり永久に花を待つ
句集の冒頭に置かれたこの句において、集まる者は誰であろう。生者なのか、死者なのか、それが判然としないのは「声もなく」と「永久に」の組合せによるのだ。生きていても声の無い者は居る。声高に語れない者達だ。語る事の出来ないほど傷を負った者達とも、生きるのに必死のあまり、語る余裕の無い者達とも取れる。そして、死者もまた語れない。永久に待つ間に、いつか生者は死者となり、死者は生まれ変わるだろう。死に変わり生き変わり花を待つ行為の内に、生者と死者の区別が無くなってゆく観がある。花とは何だろう。国土だろうか。人の喜びだろうか。前句集で「みちのくの今年の桜すべて供花」と詠われたような鎮魂の供物と観るならば、安心立命を希求するものだろうか。(それが人類側の思い込みかもしれぬ、という視点は本句集中の「花万朶被曝させたる我らにも」から窺える。ここでは人類一般の加害者性と、被曝させられた桜へ宥恕を願う気持ちが詠われる。)「片翅」は、鎮魂未だ成らず、という作者の思いから始まっていると見える。

立つほかはなき命終の松の夏

「奇跡の一本松」を思う。陸前高田市の松、或いは南相馬市の松か。大津波に耐えながらも未だ世に知られぬ松か。松の性質上、立死をしなければならぬ。時は夏、地上では諸々の命の絶頂が開く。松の立ち様は、作者の命終に関する願望でもあり、覚悟でもあろう。

死者二万餅は焼かれて脹れ出す

ここで容赦ない読み方をするなら、正月のめでたい餅に重なるのは、死者である。或る者は焼かれ、或る者は水漬いて脹れた。生きている者は餅を食う。生き延びた者もそもそも震災に遭わなかった者も餅を食う。新しい年を祝い、冥途への一里塚をまた越える。意識するとせぬとに拘らず、生者は死者の魂の上に日々を送っている。

瓦礫より人形歩き来る寒夜

人形に魂が宿るのは、何としても体が欲しいという執念による。寒夜であるから、血肉の無い人形の体はどれほど歩いても冷たく硬い。人形は不自由な体を動かし、生者の領域へとひたすら歩み来る。人形を歩かしめているのは死者の念だろうが、生き延びた者の、謂れのない慚愧でもあるかもしれぬ。

ただ凍る生が奇蹟と呼ばれし地
 
凍る太陽壁に未だに死者の声

「釜石・大槌 四句」と前書きのある中の二句。一句目は生き残った者の未だ「ただ凍る」苦難の生であり、それすらも死者から見れば奇蹟の生であろう。二句目は、生きる者が聴けば、太陽を「凍る」と表現せざるを得ないほどの死者の声だ。実際に凍る訳ではない太陽を、死者の声よ凍らしめよ、と生者は願うのか。ここで生者と死者を共鳴させるのは、二句共に「凍る」の一語であり、それは東北の冬を象徴する。そして「凍る」という語には水の要素が含まれる。

寒濤や夢にまで手が伸びて来る

死者の手であろう。死者一般とも取れるが、「寒濤」に、やはり大津波の殉難者を思う。死者を詠い続ける責任を常に思うからこそ、夢にまで死者の手が伸びてくる。死者と水、流れゆく死者というモチーフ、それは大津波という近年の事象によるだけではない。流れゆく水に死者が象徴されるような風土が、意識されているのではないか。

東北の風土は江戸の昔より厳しい。元禄、宝暦、天明、天保の大飢饉は有名であるし、昭和六年、九年の東北大凶作は、昭和恐慌、三陸大津波と相俟って飢饉をもたらし、五・一五事件、二・二六事件の遠因ともなった。地方の疲弊は国家の運命を歪ませる。飢饉の際、真っ先に犠牲となるのは幼子だ。この句集に立ち上がる、顧みられぬ魂の悲しさは、水に属する子らの句群にも表れている。

涎鼻水瓔珞として水子立つ
「水子」とは本来は赤子、幼子の意味で、「泡子」ともいう。「水の如く泡の如く流れ易い命」の意か。そこから幼くして死んだ者、また流産、死産した者をも水子と称する。従って、この語の指す意味は非常に広い。ここではその逝き様を限定せず、幼子の霊と見て良いだろう。「瓔珞」の語によって、水子は幼い観音のように描かれている。とても荘厳の役に立つとは思われない、あわれな涎と鼻水が、輝く瓔珞と変化して、水子を荘厳して欲しいと作者は願うのだ。

山の木の木這子(きぼこ)となりて吹雪呼ぶ
こけしと言わず、木這子と言ったのは、幼くして逝った者が立つ訳はない、只這うのみだという認識だろうか。或いは「子消し」と取られるのは、余りに惨いと思ったのか。ここに詠われる者は自然に流産、死産したというよりは、あえて逝かされた感が、どうしてもつきまとう。なぜなら、母を呼ぶのではなく、水の属性である吹雪を呼んでいる。もしかすると雪女を、村社会と対立する魔性を呼んでいるのかもしれぬ。

流されるために生まれし雛の顔
雛は多分、微笑むとも眠るともない顔だろう。それは諦めの表情であるか。或いはあらゆる恨みを収納するための捉えどころのない表情であるか。この流し雛は幼き者と重なって見える。予め「流される」事が決まっている子供達である。ならば大津波で流された子供達というより、むしろ大飢饉における、食扶持を減らすため間引かれた子供達を思わざるを得ない。

幼霊の跳ね戻るべし大夕立 
雪解水幼霊もまた岩走る

ここでも幼霊は水に属するものとして詠われている。水子であるなら当然だろう。しかし、恨みからは放たれ、自然の精霊のような活動性を与えられている。それは生者のファンタジーかもしれぬ。現実には、幼霊は身動きも取れず、只浮かび行くだけかもしれぬ。「幼霊の心臓の音浮氷」という句もあるからだ。だが東北の水は昏いばかりではない。

みちのくや蛇口ひねれば天の川

これがみちのくの本来あるべき夜と水の姿だ、と作者は言うかのようだ。細い銀色の蛇口から流れるのは、みちのくの水であると同時に、天上の星々でもある。イーハトーヴを思わせる。地へ流れ落ちる夜の昏さが、そのままベクトルを変え、高みの無数の煌めきへと変貌する。産土も諸々の御霊も、斯く有れ、と作者は願うのか。その作者もまた水にまつわるものである自画像を、次に示す。

飛込めと梅雨の濁流誕生日 
見上げたる我も蛟龍春の月

作者の心の激しさが良く現れている。詠われるのは作者が自覚する運命であろう。「飛び込め」とは我と我が身に命じているのだ。激しい流れを渡るが如く、言霊という泳ぎを以って格闘するのである。黒い天からはいつ止むともしれぬ雨、地には濁流、見渡す限り水の属性に覆われて、だが、それがわが誕生日だというのだ。二句目は龍と言わず蛟龍と言ったところに謙遜があるが、それでもなお龍の一種であるとの誇りを持つ。「も」に、他にも龍は存在するのだという認識が認められる。蛟とは水に潜む龍であり、ここにも水の属性が表れている。

死ぬ前に舐めるとすれば秋の虹

淡い希望とも憧憬ともつかぬ秋の虹を、末期の水として舐める。即ち、虹と水が同一化される。水は己が死の際に、恐らくは死を以って虹へと変貌して天駆け、或いは死に惹かれて天下る虹は、唇へ水と化す。先の「天の川」の句と同じく、天地のベクトルの変換が行われる。その変換を実感してこそ、初めて自在となるのだろうか。この句と表裏をなす句として、「晩夏光絡めて舐めよ切傷は」が挙げられる。先の句を死の舌とすれば、この句はさしずめ生の舌であろう。先の句で死を以って天地を交換する舌は、生である傷を光を以って癒す舌でもある。

全ページ秋風の湧く本が欲し

そんな本を読みたいと思うとも取れるが、それ以上にそんな本を作りたいと思うのかもしれぬ。怒りや涙から遠く離れ、激情を遥か彼方に置き去りにして、透明な爽やかな本が書けたら。もっと言えば、自在にして寂静なる風の吹く本が書けたら。そういう振りをしているだけの本なら、世に掃いて捨てる程ある。作者が欲しいのは振りをしている本ではなく、本当に全ページ秋風が湧く如く、世界を透徹して観ている本、言霊の、風の如く来たりて風の如く去る本なのだ。そんな本は「地獄の只中で精励刻苦する者」によって書かれ、人間の思考を超えているだろう。

猫曰く二本足では恋は無理

「恋は盲目」とは、突き詰めれば、社会の慣習や常識に囚われていたら恋は出来ない、恋は捨身でするものとの意でもある。それを猫に諭されるとは。高貴にして自由な生き物である猫だからこそ言えるのだ。そんなことを人間に諭せるのは、あとは狐か蛇くらいだろうが、ここは「恋猫」という季語があるほど情熱的な猫の出番だろう。

「首のない水仙恋を語り出す」も同様の諧謔だろうか。もはや水に映る顔も思い悩む頭も無くなったナルシスの化身は、初めて恋の何たるかを悟るのか。

飛ぶときは菊座もあらわ寒の雁

永田耕衣の「天心にして脇見せり春の雁」を思わせるが、耕衣の句に知識人の禅臭が漂うのに対し、この雁はもっとナマである。高空の凍てに抗して、身も蓋もなく肛門を曝して飛ぶ。それが雁の宿命である。「春の雁」なら、雁の生の厳しさは失われてしまう。

刻まれていよいよ海鼠銀河色

元々銀河色だったのが、愈々煌めくようになるのか。刻まれても再生可能な海鼠の生命力を思うなら、「いよいよ」は「海鼠」に掛かり、不死性の意かもしれぬ。いずれにせよ、刻まれて海鼠の不死なる銀河色は増すのだ。海底より来たる海鼠が銀河の色を存する、ここに天と海底の交歓が生じている。海底も夜天も、生者の領域ではない。海鼠を介して、異界の領域を食おうとしているのか。

轢死して西日を翅として毛虫
毛虫は、蝶と化さずとも良いから飛びたかったのだ。平たく轢死した今、地面と同化してしまっている。西日が長く伸びている。西日もまた地面に張り付いている。西日の先は空に繋がっている。その西日を翅と観たのは、毛虫の願いへの共鳴である。取り返しのつかぬ無惨さも、結果として斯く在れと。

前句集に引き続き、原発事故の句もある。「福島原発二十キロ圏内 十句」と題された句群から、五句を次に挙げる。

原子炉へ陰剝出しに野襤褸菊 
緑夜あり棄牛と知らぬ牛の眼に 
夏雲が供花か棄牛の頭蓋骨 
夏草に餓死せし牛の眼が光る 
峯雲や家を守るは家霊のみ

一句目、野襤褸菊の花弁は無いに等しい。小さな花が筒状に集まっている。花が咲いた後の白い綿毛が襤褸のように哀れなので、この名称があるそうだ。植物の陰(ほと)は花であろう。剝き出しと言っても牡丹やたんぽぽとは違い、野襤褸菊の花はあまりにも控え目だ。原子炉へ曝される陰(ほと)である花は、放射能に抗する生命の誇示とも読める。しかし、如何せん、野襤褸菊、その慎ましさ。

二、三、四句目は、置き去られた牛の悲哀である。人の側とて断腸の思いで牛を置いて去った。なぜこうなったのか牛には理解できない。何を糾弾することも無く、唯寂しい、ひもじいと思うのみだろう。作者は無力な人類として、季語を牛に捧げるしかない。牛の死に至る時間、牛の死後の時間だけが流れゆく、人間の居ない、この奇妙な広大さ。
五句目は、無人の家になおも留まる御霊へと峯雲を捧げている。その白く輝く高みを供物として、甲斐なく家を守る御霊を照らしたいのだ。住む人がいなければ家は急速に傷む。御霊もそれを防ぐことは出来まい。家霊とは何だろう。様々な霊の混合体であろう。例えば、敷地の霊、家に住んでいた人々の先祖の霊、住民がかつて家に注いでいた日々の念、また産土神の思いも入っているだろう。原発事故は、単に目に見える、或いは計測できるものを汚染しただけではない。その土地の霊的な豊饒さをもまた、分断したのだ。

地震の話いつしか桃が咲く話
これは生者の本能だろう。あの大震災の話、死者の無念に覆われた話が、いつしか生きて咲く桃の話題に代わる。三月は殉難者を悼む月であると同時に、桃花の明るい雅を楽しむ月でもある。死の上に立って尚も生を見据えるのには努力が要る。自然は、死の上に何のためらいもなく生を咲かせる。死の裏には生があるし、生の裏もまた然りだが、人間は自我ゆえに、生死の連環を肯うことは難しい。「万象に裏側ありて紙魚走る」の句もある。この紙魚は、二元対立の狭間を走り抜けるトリックスターのようだ。

桜餅津波のごとき舌をもて

この句など、危うい諧謔と見なされるかも知れぬが、只諧謔と括ってしまうのは、ためらわれる。もっと深い、人の生の痛快さと悲しさを思わせる。桜餅を瞬く間に平らげるほどの食べっぷりに、あの津波を重ねることにより、人の生よ津波を超えろ、と密かに念じる作者であろう。

生還は日常の些事寒雀

些事と言いつつ、実はそれ以上のことはない、と思わしめるのは、季語の「寒雀」による。冬に餌を探すのは至難で、雀は死に易い。少しの事で翼が動かなくなる。そうなると死ぬまでに随分悶える。そんな雀を拾ったことがある。掌に抱きとめても、どうしても畳むことが出来ぬ翼を半端に広げたまま、水も飲まず米粒も食わず、ただもがくのみだった。小一時間も暴れて徐々に動かなくなった。雀の生も死も些事であろう。だが掌に、雀の綿毛は暖かかった。命は、寒の最中でも死に瀕していても暖かい。

掲句は大震災の記憶を踏まえているだろう。日常から突然攫われた記憶を基底に、生存の常に危うい寒雀を見ているのだ。しかし危ういとは、どのようにでも変化するという希望でもある。その変化は、生者ばかりにあるのではない。死者もまた変化する。

冥婚の今お開きか春の星
日本における冥婚というと、「むかさり絵馬」を思う。山形の風習で、「むかさり」とは「迎えられる」または「迎え、去る」の方言と聞く。夭折した者の為に架空の結婚相手を迎え、その婚礼の様を描いて奉納する。今は合成写真を納める事も多い。絵馬は全国から来るのだ。どの寺でも、堂を埋め尽くす絵馬からは圧倒的な念を感じる。江戸のもの、明治大正のもの、また戦死者の婚礼もある。あの大津波の殉難者達の婚礼も、描かれ納められているだろう。「お開き」とは、生者が絵馬を奉納した帰り道の思いか。見上げると、春の星が出ている。死後にも生活はあり、婚礼という目出度さもある。「むかさり絵馬」の風習があるではないか、と作者は思うのだ。実際には堂内に否応なく感じたであろう、念の渦巻く暗冥を超えて、「春の星」と、作者が穏やかな希望を配したのは、無念を超えようとする意志だろう。

荼毘の火となりても生きよ桜満つ
 
骨となる炎立ちたり花の奥

一句目では、火という非物質が、死者の新たな肉体となるのだ。「も」の一字は、「非物質であろうとも、なお生きて在れ」と死者へ向ける言霊であり、満ちる桜は、言霊を受けた死者が復活するための力である。荼毘という儀式において尚、生へ向かう意志が、死者を暗冥から解き放つのか。二句目においては「骨となる炎」、即ち炎を骨として新たに死者の肉体が形成される。「花の奥」とは、万朶の花の重なる深みでもあり、一花の蕊の奥でもあろう。そのいずれにせよ、再生は、深く密やかなところで行われる。桜は、ここで復活を約し、導く証として、咲き謳う。桜を産土神の顕現として観ることも出来よう。死者、ふるさと、生者は、花の色に渾然と交歓し、再生へと踏み出すように見える。





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