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2016年11月25日金曜日
【抜粋】<「俳句四季」12月号> 俳壇観測連載167 /ノーベル文学賞が俳句に考えさせること――浅沼璞と山本敏倖の思索 筑紫磐井
この数日間の文学関係者の衝撃はボブ・ディランのノーベル文学賞受賞であろう(現時点で、ボブ・ディラン側の態度は未確定)。小説や詩ではなく、彼の音楽活動によって受賞したものだからだ。しかし、彼の楽曲から音楽要素を除いた歌詞自身が高い文学性を持つなら否定はできない。むしろ面白かったのはこの問題を通じて、二十世紀的「文学」観の変質・崩壊が垣間見えたことの方である。
似たことはかつて俳句でもあった。俳句において文学可否論争といえば戦後の岩波書店の「世界」に載った桑原武夫の「第二芸術」を思い出す。俳句を第一芸術ではない、第二芸術だと断言したのだが、批判された俳句は変わらないものの、芸術は今日桑原が定義したものより大幅に拡大している。アフリカ諸国の芸術、ボーダー的な芸術、日本のアニメなどはもはや芸術でないと排斥することはできないだろう。そもそも桑原の「第二芸術」そのものにしてからが、俳句と対比する芸術として、ハンフリーボガードの「カサブランカ」を例にあげたりしているのだから相当おかしいものであった。「カサブランカ」がいけないというわけではない、それを一流とし、俳句を二流とする基準がおかしかったのだ。
こんなことを考えているうちに、俳句の内側・外側を考えさせる本を見つけた。
●浅沼璞『俳句・連句REMIX』(二〇一六年四月東京四季出版刊)
浅沼はすでに、『可能性としての連句』『超連句入門』『中層連句宣言』を刊行し、本書で晴れて詩歌句大賞を受賞した。現代的連句論ということが評価されたのだ、慶賀に耐えない。浅沼は連句研究者(実作者でもあるが)であるから、本書は連句論らしい序・破・急の構成をとり、序は「俳句的連句入門」、破は「現代的連句鑑賞」、急は「連句的西鶴論」となっている。基本的には連句講座なのであるが、その間に、「俳クリティーク」Ⅰ~Ⅲを配し、俳句関係の著書や話題を論じている。連句に関心のある人はその序・破・急に従って読むことにより、連句の初級・中級・上級の階梯を踏むことができるが、一方で本誌の読者のようなもっぱら俳句に関心を持つ人には、「俳クリティーク」の俳句の話題から始まり、連句へとさかのぼる読み方が有益であろう。なぜそれが大事かと言えば、子規以後の俳句も、芭蕉以来の俳諧(連句と発句)、さらに宗鑑・守武の誹諧連歌へと遡らざるを得ないからである。俳句で使っている一言一句が、俳諧・誹諧連歌に典拠を持っているからである。未来の俳句を考えるにもこの根源性を無視できないのである。
本誌の読者向けに「俳クリティーク」から紹介すれば、滑稽と写実、現代に生きる俳文学の伝統、林扶美子の侘び、無心所著(滑稽の一種と考えてよいであろう)、談林(これは西鶴に代表される)と並べれば、近代以後の西洋的な文学性と相対するものが俳句にはなお残っており、それが現在と未来へのアリバイとなっているということができるのである。
ここでぜひ読んでほしいのは、「発句の位/平句の位」である。俳人は忘れっぽいので「水中花論争」という類想句論争があったことを近頃語らない。浅沼はこの論争を、類想がいけないという倫理的問題ではなく、読みの多様性として吟味する。二つの句を比較して二重性があるかどうか、様々な論者の表現を借りれば、①まっすぐに読める・作者の意見がある、②ひとへ(平句)・ふたへ(発句)、③連作的制作の有無、と深堀りを進め、それが俳句・川柳それぞれにある潜在的表現意欲に由来するのだという。そこから俳句の本質を、川柳とは違う〈滑稽義〉と〈写実義〉の共存にあるとするのである。
ここまで読めば、「俳クリティーク」で取り上げた多くの問題が、この一点に集約することが分かるであろう。連歌・連句の持つ連衆の多様な個性を合体させるシステムは、世界にまれな独自の文学を作り上げているのだ。
ディランはケルアックらとも親交深かったですから、ある意味ビート詩人ともいえますしね。
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