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2016年11月25日金曜日

【短詩時評31会場目】文学フリマに行こう、家から出ないで-第二十三回文学フリマ東京Webカタログを読む-  柳本々々


今年はたぶんひとりでの時評はこれが最後になるはずなんですが、少し変わったことをしてみようと思い、《フリマWebカタログを読む》ということをしてみようかと思うんです。

2016年11月23日の祝日に平和島の流通センターで第二十三回文学フリマ東京が開催されました。

行こうかどうしようか迷っていたわたしは、前日におなかが痛くなりおなかをおさえて、うーんうーんと言いながら部屋のまんなかに熊のように倒れこんでいたのですが、




行ってみました。

そこで私はOさんに初めてお会いすることができご挨拶させていただいたのですが、Oさんが《文学フリマというのはツイッターと連動していて、ツイッターをみていないでここにくるのと、ツイッターの情報を持ち合わせてここにくるのとではぜんぜんみえている風景が違うのではないか》というような趣旨のお話をされていて、そのお話がとても印象に残ったんですね。


で、そのお話が興味深かったのはそのOさんのお話を裏返してこんなことも言えるんじゃないかとおもったからなんです。《文学フリマにもしなんらかの都合で〈行けなかった〉としてもたとえば〈Webカタログを読む〉ことによって〈ただ単に何も知らないで行ったひと〉よりも逆に〈参加〉しちゃうことになっちゃう場合があるんじゃないか》と。


なんでそんなことを思ったかというと、文フリに行く予定だったので前日に文フリのWebカタログを読んでいたんですね。これは文フリのサイトで無料で公開(https://c.bunfree.net)されているので誰でも読めるんです。

そのカタログのうちの「俳句・短歌・川柳」の欄を読んでいたんですが、そこには各出店者(サークル)のツイッターアカウントと紹介文がついている。それらがとても面白かったんですね。

たとえば「RTs」は辻聡之さんと龍翔さんの短歌ユニット=出店者ですが「めがねで短歌なふたり、三度目。」と出店者の紹介文が書いてある。ここでは端的に「めがね」「短歌な」というユニットのキャラクター付けや「三度目」という履歴が「ふたり(2)」「三度(3)」と詩的に対になりながら紹介されています。そのことによってこのユニットのキャラクター性のようなものがわかる仕組みになっています。

実際、文フリに行ってみるとわかるのですが、かなり間近に出店者の方たちとわたしたちは接することになります。しかも出店者の方は腰をおろされている(うつむいている方もおられる)ためわたしたちは出店者の方々をみおろす形でそのブースで販売されている冊子をみることになります。

そのときわたしたちはまず日常的にはあまりありえないパーソナルスペースの侵食を経験した上でその場に立たなければなりません。これはたとえば小心者のわたしにはなかなか難易度の高い行為です。ですから、冊子を手にとっても頭に入らないことがある。がくがく手や足がふるえ、なにか荒行(あらぎょう)という言葉も思い出したりする場合も、ある。

でもこのカタログを読んでいけばそのブースのキャラクター・カラーが一目でわかります。そこは変な話ですがある意味でひとつのコミュニケーション・スペースになっている。というか、このカタログを読んでいないと逆にぜんぜんわからないこともある。《当日会場に足を運んでいるのに》です。よくわからないまま熱気に負けて帰っちゃうこともありうるでしょう。

つまりです。ふつうはですよ、実際に身体で現場を経験したほうが経験値が多いはずなのに、文フリにおいては、もしかしたらWeb上の経験値(どれだけ象徴的に家にいたか)の方が現場の身体的経験より価値として上回る場合があるのではないかということなんです。その経験値の逆転のようなものが文フリには〈感覚〉としてあらわれている。

そういう独特の経験値の構図が逆転したものが文フリなのではないかと思ったんです。


文フリはそういう空間のねじれのようなものを考える場所としてもおもしろい場所なのではないかと思います。ぜひ現場に行ってみて文フリに行ってみたり、家のなかで文フリに行ってみたりしてみてください。


最後に辻さんと龍翔さんのブースで無料配布されていた「RT」からおふたりの俳句。「今回はなぜか俳句を作ってみました」と説明書きがあります。出店者と参加者にこの「なぜか」が突発的に創出されてしまうのが文フリのもしかしたら最大のおもしろさかもしれませんね。「なぜか」のクリエイティビティ。

  時雨るるや肩を容易く組みてをり  龍翔

  秋深し何を諦めたらいいの  辻聡之

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