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2016年1月8日金曜日

【俳句時評】   『草の王』の厳しい定型感――石田郷子私観(後編) 堀下翔



『秋の顔』(ふらんす堂/1996)にみられる石田郷子(1958-)の形式に対するういういしさは、同時代の女流作家、ことに吉本ばなな(1964-)や鷺沢萠(1968-2004)のそれとよく似ているのではないか、という思いがずいぶん前からある。まず表現者としての出発時期が近い。石田の「木語」入会が1986年。吉本が「キッチン」、鷺沢が「川べりの道」でそれぞれ文壇デビューを果たしたのが1987年である。

吉本ばななの最初期の長編で、のち、彼女の作品としてはもっとも先に文庫化もされた『哀しい予感』(角川書店/1988)、あるいは、鷺沢萠が、自身に韓国人の血が流れていることを知り、そのアイデンティティを主題にしはじめる前の、若書きの短編集『海の鳥・空の魚』(角川書店/1990)あたりを読むと、その印象は甚だしい。よしんば情景描写や三人称視点の記述であっても、そのいわゆる「神の視点」自体に女性性を強く感じる文体が、彼女たちに共有されている。女流作家、ああ、この言葉もいまではほとんど古くなってしまっただろうけれど、その人たちにしか書けない、抒情と鋭敏さの間をたくみに縫いまわる文体というのは昔からあって、たとえば幸田文、有吉佐和子、そして向田邦子あたりまでの作家のことであるが、彼女らの和文脈を思わせる丁寧で連綿とした書き方の延長線上に、吉本や鷺沢はある。そんな彼女らにとっての新規性は、その女流らしさを引き受けながらも、泥臭さがなく、ライトであるに点あろうか。

その古い一軒家は駅からかなり離れた住宅街にあった。巨大な公園の裏手なのでいつでも荒々しい緑の匂いに包まれ、雨上がりなどは家を取り巻く街中が森林になってしまったような濃い空気がたちこめ、息苦しいほどだった。 
(吉本ばなな『哀しい予感』角川書店/1988/引用は1991年の角川文庫版)


日が傾きはじめ、窓から射しこむ光に照らされた床が濃いオレンジ色になった。そのオレンジ色の床に寝そべったまま、汀子はうとうとしてしまったらしい。耳に風鈴の涼しげな音が心地よかった。/次に目覚めたのは、風鈴がひどく激しく鳴ったからだった。睡りと覚醒の中間のところで、何であんなに鳴っているんだろうと訝しく思い、ふと目覚めてみると、それは風鈴ではなくドアのチャイムなのだった。 
(鷺沢萠「天高く」『海の鳥・空の魚』角川書店/1990/引用は1992年の角川文庫版)

吉本、キレのいい一文目と、接続詞を多用して呼吸が長い二文目との響き合いが巧みだ。鷺沢の方は最後の文の冗漫さがたゆたうような寝覚めの心地を再現している。「なのだった」に味がある。いずれもコシがあって、一部だけ抜き出してこれは向田邦子ですなどと言われたら分からない。情景描写がやや類型的であるが、そこが若書きたるゆえんであり、かつ石田郷子の〈冬帽子まつすぐな眼でありにけり〉〈その中の眠りの深き夏蚕かな〉〈あたらしき鹿のあしあと花すみれ〉(以上『秋の顔』)などに見られる、ともすれば能天気とも思われる純粋でさっぱりとした描写が連想されるところである。

何が言いたかったかと言うと、石田郷子は、そういう新しい時代の作家群の一人のような気がする、ということだ。さっき幸田文から向田邦子までの小説家の名前を挙げて、吉本や鷺沢と微妙に断絶していると述べたが、石田のことを考えるとき、その名前は例えば星野立子、中村汀女、そのあとの時代であれば、岡本眸あたりと、置き換えることができる。上の世代と同じ筆脈をもって、丁寧な書き方をしていながら、何を書いても明るくなってしまい、そのことがついにはモラルになる新しさが、彼女たちの持ち味である。形式に対するういういしさが、そのような形で顕在化する、幸運な世代であった。

余談だが、吉本ばななといえば、せりふの文体や物語の構造に少女漫画の影響がしばしば指摘されてきた作家である。筆者には大塚英志が複数の著書にわたって言及しているのが印象に強い。消息は原亜由美「吉本ばなな「キッチン」と大島弓子「七月七日に」――「えり子さん」と「母さま」――」(「歴史文化社会論講座紀要」2012)に詳しいのでご参照を願いたい。「形式」という言葉を接点に石田から吉本へ連想が及んだゆえんの一端である。

さてそのように形式に捧げられたと言えよう第1句集『秋の顔』を経て、第2句集『木の名前』(ふらんす堂/2004)において石田は、その形式において書くべき対象を見定めている。自然と自己との交わりである。第1句集の時点ですでに、都市や人間、文化よりも自然を題材にする傾向が強かったが、『木の名前』に至ってそれはいっそう顕著になる。かつ、これは非常に重要なことであるが、単に自然をうつしとるのではなく、それに心を寄せる主体自身が、一句の中に書き込まれている点で、特徴的である。

掌をあてて言ふ木の名前冬はじめ 石田郷子

句集表題句となったこの一句にしてそれはあらわである。眼前の一樹をゆかしく思い、その存在感を書きとどめようとするときに、彼女が言挙げするのは、木の姿ではない。おのれと木が触れ合い、名前を呼んだこと、その印象が「冬はじめ」と隣接する、さえざえとした、心の深く及んでゆくものであったこと、それが述べられるのである。

さへづりのだんだん吾を容れにけり 石田郷子 
うごかざる一点がわれ青嵐 
ここに母佇ちしと思ふ龍の玉

など、『木の名前』のうちの名吟には、主体とのかかわりにおいて自然が描かれる句が多い。

ことごとくやさしくなりて枯れにけり 石田郷子

この句は少し変な構文をしている。『秋の顔』所収の〈来ることの嬉しき燕きたりけり〉が、連体形の奇妙な掛かりようによって、主体と燕とがよろこびを同じゅうしているかのように表現されたのと近いが、掲句の場合は、接続詞が重要な働きをしている。まずこの句、いったいどういうことを言っているのだろうか。副詞「ことごとく」は、「やさしくなり」に掛かっているわけだが、ではその主体は何かと言うと、明示されていない。この上五中七が下五「枯れにけり」へ流れてゆくので、上五中七の主語も、この「枯れ」ていったもの、すなわち何かの木であろうと思われるが、ここにはひとつ、木が「やさしくな」るというのがよく分からない、という問題がある。「やさしくな」るという動詞はふつう人間を主語にとって用いる。とすればここにおいて、一句の主語は木であると同時に人間にもなり、「優しくなり」「枯れ」てしまった木は人間のイメージと重なる。冬に向けて葉を落してしまった木は、何かを失って立ち尽くしながらも「やさし」い気持ちでいられる人(老人でも、もっと若い人でもいいのだが)として提示され、人生の必然に対する覚悟に裏打ちされた穏健さを湛え始める。このイメージの二重写しをさらに重層的なものにしているのが接続助詞「て」である。「て」というのは非常に難しい助詞で、異なるセンテンスを一文のうちに収める働きをしているわけだが、その前後における主語が、同一のものになるか、それとも主語も変化するのかは、まるきり文脈に依存するのである。すなわち掲句であれば、「やさしくな」ると「枯れ」るの主語が異なる可能性がある。それはたとえば、木を見て「やさしく」なってゆく主体から、その主体の視点がそのまま移動するかのように、「枯れ」てゆく木へ、ピントが変化してゆくようなものである。どこまでが人間で、どこからが木のことか判然としない不安定な文体によって、主体と対象が一体化している。やはりこれも、自然と自己との交わりの句なのである。

あるいはこの句、

音ひとつ立ててをりたる泉かな 石田郷子

について、長谷川櫂が同句集の栞にこのようなことを書いている。

泉のほとりで泉の底からもれてくる音に耳を傾けているあなたの横顔がみえるところがとてもいい。

どんな句だってそれを書き留めた人間がいる以上、その書き手の存在はどこかに感ぜられるものではないかと思う向きもあるかもしれないが、掲句のような純粋な叙景句の場合、なかなかそのことには気づきがたいものである。こんな句に作者の存在を感じ取るとはさすが長谷川櫂だと敬服した次第。

自然を題材にしようとする作家は、古くから、叙景を志す場合が多い。大正俳壇的な遠景の句にせよ、素十の草の芽俳句的な近景の句にせよ、自然描写はそのディティールに終始しがちである。人間が登場する場合も、他者としてのそれである。また、立子・汀女らの句に見られる生活感とも、ニュアンスが少し違う。生活を離れたところで自然に心を寄せながらも、私性を意識し、あるいは思わずもそれがにじみ出てしまう、石田郷子はそのような作家だ。

小川軽舟が『現代俳句の海図』(角川学芸出版/2008)において指摘したとおり、俳句史停滞の予感が充満した中で俳句を書き始めた昭和三十年世代の作家にとって、手元にあるのは俳句形式のみである。何を書くか以上にいかに書くかという点に強く関心を持ち、表現レベルの更新、すなわち形式への奉仕を目論む者の多い作家群が、昭和三十年世代であると言えよう。こと、出発がやや遅れた石田はいわゆる「平成無風」に直撃しているのであるが、そんな中で彼女が、形式に身をゆだね始めたのち、おのれが書くべき対象を発見したのは注目に値する。

さて第3句集『草の王』(ふらんす堂/2015)が刊行された。第2句集からずいぶん時間が経っている。第2句集以降、大木あまり・藺草慶子・山西雅子とともに同人誌「星の木」を創刊しているし、総合誌で名前を見ることも多かったから、かなりの作品が溜まっている筈だと、かねてより気にしていたものだった。「鷹」2014.8掲載のインタビュー「俳人を作ったもの」(シリーズ第6回/聞き手:高柳克弘)で刊行が予告されているのを読んで、ほっと胸をなでおろしたのはよかったが、結局その後2015年9月まで待たされたので、ずいぶんどきどきさせてもらったことになる。

手に取って、帯の自選句に、

大杉を恃みぬ人も寒禽も 石田郷子 
狼のたどる稜線かもしれぬ

といった句が並んでいるのを見たときには、ひやひやした。自然への傾倒が深化した結果、人間と動植物が同じ立場で描かれる、童話的世界観に突入してしまったのではないかと思ったのだ。それに2句目、いまどき「かもしれぬ」といった表現で勝負する時代でもあるまい。

ぱらぱらとめくったところに、「転居」の前書きをつけた

夕河鹿セブンイレブンまで三里 石田郷子

という句を見つけたときにも驚いた。こ、これは自分のライフスタイルに酔っているタイプのやつではないか……???

だがそれは杞憂であった。『草の王』は、既刊2句集に見られた自然詠をいっそう鋭い切り口によって深めていった成果が惜しみなく披露される、たいへんな句集であった。

手の出る素材の範囲にやや狭い印象があった第2句集までとは異なり、語彙が格段に増え、言葉の展開にもきびきびとしたものが見られるようになった。定型感が強いのも特筆せねばなるまい。石田特有の自在な文体も、洗練度を増し、清潔感がある。

『草の王』にはたとえばこのような句が収録されている。

浸しある杵に笹子の来てをりぬ 石田郷子 
白椿なればしづかに歩み出づ 
一瞬の夕日のつよし蘆の花 
冬の虹紫濃きと思ふのみ

1句目、杵と笹子の意外な出会い。もうひとつ「浸しある」が意外だ。予定調和を感じさせない構成に確かな手ごたえがある。「来てをりぬ」がやや擬人的で、小さな鳥に対するまなざしが感ぜられる。2句目、「なれば」が面白い。白椿であるからしずかに歩み出すのだ、という論理関係を述べる。ほんらいこの接続助詞「ば」の前後には因果関係はない筈であるが、白椿の「白」が「しづかに」のイメージと呼びあうし、またそのさっぱりとした感じが、「歩み出づ」という、たとえば「歩き出す」などではない格調だかい書き方と、りんりんと響きあうので、順接の論理関係もなるほどと思わせる力が強い。椿と心の通っていることを信じて疑わざる書きぶりである。3句目はある意味平凡なことがらであるが、強靭な定型を背に当てながら発せられることで、強く迫ってくる言葉となった。「つよし」が平仮名なのが石田らしくていい。4句目、冬の虹に対する印象を述べたあと、それを「のみ」と断定した。ただそう思うだけである、と、なにゆえにか切り捨てられた冬の虹が、さむざむとした空にひどく寂寞と残されている。なぜ「のみ」とまで言われなければならないのか分からぬため、ひじょうに理不尽で、そのために印象に残る。

集中の白眉はこの句であろう。

みみなぐさ目覚めよき人ここへ来よ 石田郷子

みみなぐさは、はこべに似た花で、夏のはじめにささやかな花をつける。こういう地味な花の名前を持ってくるのがまずうれしい。耳慣れないこの花の名前に、いったい何が語られるのであろうかと襟を正す思いになる。そして中七下五で、「目覚めよきひと」が「ここ」へ呼ばれる。早起きの人へ、一緒にこの花を見ようと語りかけているのだ。朝の早い時間に出る野のすがすがしさは、「目覚めよき人」というさっぱりとした言葉、あるいは「来よ」という切れ味のよい命令形が裏打ちする。この「目覚めよき人」とは不特定多数のことを言っているのだろうか。この花を誰かと一緒に見たい、誰かいないか、そんなかそけき思いに、「目覚めよき人ここへ来よ」という言葉が不意に発せられた、そういう解釈もいい。あるいは、だれか一人の顔を思い浮べているというのはどうだろう。いつも目覚めのよいあの人よ、ここへ来てくれよ――この場合は、命令形に、つよい信頼が感ぜられたりもする。思い描く一人がありながら、それが、「目覚めよき人」と一般化して述べられるので、この「目覚めよき人」は、読者にとっての誰のことであってもよいような、無限の広がりを持つことになる。どちらにせよ、主情の及ばない凛然とした文語体で述べられているため、清潔感が強い。ひびきのよさと相俟って、鋭く胸に届けられる。

この句集の成果は、定型に対して自由であることが句の生命であった若書き時代を通過し、定型に厳しく身を置くことによって、若書き以上の言葉の瞬発力を呼び起こし得たことにあろう。それは、自然を愛し、自然を凝視する過程で要請された、きびしい時間の落とし子であったにちがいない。第1句集から微妙に軸足を動かしつつ、いっそう、よりいっそう深まってゆく自然への心のよりように心が動かされ、それをしかと書き留める表現の精悍さに呆然とする。大切にしたい句集である。


等身大の文体――石田郷子私観(前編) 》読む


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