その八十五(朝日俳壇平成27年9月21日から)
◆秋の蟬親鸞像の杖つかむ (たつの市)竹内澄子
金子兜太の選である。またこの場所に来ることが出来るようにしたい、という祈願の御まじないである。北ドイツのブレーメンに「ブレーマー・ムジカンテン」(ブレーメンの音楽隊のブロンズ像)が聖堂の脇に建てられている。その一番下になるロバの前脚を握ると“再びブレーメンに来られる”という言い伝えがあるのだ。その為か、ロバの前脚は緑青が剥がれて金ピカに輝いている。作者の次の来訪は「秋の蟬」の鳴く季節であろうか?
◆霧吸うてまだ生きてゐる生きてやる (宍栗市)岩神刻舟
金子兜太の選である。俳句表現の活用法の一つであろう。中七座五の「まだ生きてゐる生きてやる」は、同義の内容の自動と意志を含む表現の重なりで、後半の決意を強調する効果を出している。が、まるで仙人のような上五の「霧吸うて」があるので、諧謔も醸し出しているようだ。
◆暑い日にどうでも良い名付けられし (長岡京市)寺嶋三郎
長谷川櫂の選である。評には「三席。どうでもよくみえて、動かしがたい名前。季語の選び方もここに極まる。」と記されている。三郎といえば俳句界では「桑原三郎」であろう。現役バリバリの俳人だ。どうでも良い名ではない。かつては「一郎」「二郎」・・・「与一」(十一男のこと)のような記名もあった。那須与一に至っては有名この上ないのであり、「与一」といえば那須与一なのである。ということは「どうでも良い」ことにしてしまっている自己の責任があるわけだ。作者はそこのところを季題「暑い日」で担保しようとしている。自虐が見事に俳句に仕上がっている。
◆猿股の予備も大事や震災忌 (函館市)武田悟
長谷川櫂の選である。中七の「・・や」は切れ字であるが、「大事や小事」の省略として読むと面白い。一般的には猿股は小事=日常であり、震災忌は大事なのである。この句の構造上、「も大事や」であるから、日常の猿股に実は大事な日常の暮らしの大切さを象徴しているのであって、苦笑いの後に、大いなる納得が来るのである。
その八十六(朝日俳壇平成27年9月28日から)
◆冷まじや王冠かぶる頭蓋骨 (ドイツ)ハルツォーク洋子
金子兜太と大串章の共選である。金子兜太の評には「洋子氏。「冷まじや」は恐怖というより荒涼感で受け取る。誰の骨か知りたい。」と記されている。オーストリアのハルシュタットにはそれは立派なバインハウス(納骨堂)があって、幾世代もの遺骨が納められている。山岳地帯の湖畔の町で平たい土地が狭いために墓所を拡張することが出来ずにいる。埋葬された遺骨は二十年から三十年、それ以上の年月を経て掘り出されて、骨のみになったところへ、特に頭蓋骨に装飾して納骨堂へ納め積み上げるのだ。家々の格式や職業などによって装飾の図柄がことなり、見様によっては見事な芸術品なのである。掲句からはそんな情景が連想されるが、「王冠」というと都会の教会にある、王侯貴族や枢機卿、大司教の聖遺骨の類かも知れない。どちらにしても文字通り「冷まじや」である。
◆はすうゑるははじゆんぼくののうふかな (善通寺市)土井正美
金子兜太と長谷川櫂の共選である。金子兜太の評には「土井氏。平仮名書き下ろしに雰囲気が感じられて。」と記されている。評の通り、平仮名書きの効果絶大である。「はは」「のの」の重複部分は読みにくさがあるが、何度も読み返せば味が出てくる。母を「農婦」と表記しないところが良いのである。
◆寒蟬に賽銭多少弾みけり (福津市)下村靖彦
大串章の選である。評には「第二句。寒蝉の声を聞いて心が和んだのであろう。面白い。寒蟬、ここでは法師蟬のこと。」と記されている。季題「寒蟬」の既成既存のイメージを拡大している。「寒蟬」の魂へ作者の魂がしみ込んでいるようだ。俳句の蝉には、人生の何たるかを透してメタファにすることが多いが、掲句の「寒蟬」は作者の外側に位置していて作者の心を鼓舞している様で、心地よい作品になっている。
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