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2015年8月7日金曜日

【短歌と漫画】ボクらの身体、または平坦な身体の戦場で-岡野大嗣・市川春子・浅野いにお-  柳本々々



彼女は、僕の指だった
  (市川春子『虫と歌』講談社、2009年、p.15)

彼ら(彼女ら)は決してもう二度と出逢うことはないだろう。そして彼ら(彼女ら)はそのことを徐々に忘れてゆくだろう。切り傷やすり傷が乾き、かさぶたになり、新しい皮膚になってゆくように。そして彼らは決して忘れないだろう。皮膚の上の赤いひきつれのように。 
平担な戦場で僕らが生き延びること。
  
 
(岡崎京子「ノート あとがきにかえて」『リバーズ・エッジ 愛蔵版』宝島社、2008年、p.234)

先日、大阪で行われたとととと展のととととライブで、歌人の岡野大嗣さん、イラストレーターの安福望さん、わたし柳本々々のさんにんで短歌と絵とマンガをめぐってクロストークをしてきました。

そのなかで、岡野さんの歌集『サイレンと犀』(書肆侃侃房、2014年)における身体とマンガにおける身体の〈親近性〉の話にふれました。

まず岡野さんの歌集にみられる身体性とは、どういうものか。

これはわたしが思っていることなんですが、岡野さんの短歌における身体のありかたとして、身体性が抹消したり、外部におかれてしまったりする、〈外への身体〉というのがあるんじゃないかと思うんですね。

たとえば岡野さんにこんな歌があります。

友達の遺品のメガネに付いていた指紋を癖で拭いてしまった  岡野大嗣

この歌のひとつのポイントは、ふだんの身体の癖で、唯一そのメガネに残っていた死んだ友達の身体性=指紋がかき消されてしまうところにあるんじゃないかと思
うんです。つまりある意味でこの歌は、〈身体性の抹消〉をめぐる歌なんです。友達の身体は語り手の過失によりレンズ内の痕跡としての〈内〉側から〈外〉へ
と消えてしまった。

で、こういう〈外〉へ向かう身体は、たとえばマンガにおける身体とも呼応しているのではないかとも思うんです。

市川春子さんの『虫と歌』(講談社、2009年)というマンガがあります。市川マンガの大きな特徴は、身体が微分化=分解されるように、ばらばらにほどけていくその瞬間が、大きく描写されることです。

市川マンガでは身体はシステムの一環であり、指が生えたり、挿し木にしたりもできます。また指そのものが少女になったりもするというのも特徴的です。

市川マンガにおける身体は〈この・わたしのもの〉という内へのベクトルをもつものではなく、つねに〈わたし以外〉の〈外〉へと同期し、きっかけさえあれば、微分化=分解され、崩れていってしまうような、そういう〈外への身体〉なのです。

あらかじめそのシステムに孕まれた僕の右手が抜く整理券  岡野大嗣

電線の束を目で追うこの街の頸動脈の位置をさがして  〃

「そのシステムに孕まれた僕の右手」や「この街の頸動脈」というシステムに組み込まれ同期される身体。それが岡野短歌や市川マンガにおける身体なのではないか、と。

では、こういう身体を相対化する身体は、〈どこ〉にあるのか。

たとえばそれは、浅野いにおさんの『素晴らしい世界』(小学館、2010年)にみられるんじゃないかとおもいます。

いにおマンガの特徴に、青空にダイヴするシーンがあります。いにおマンガの人物たちは、投身というより、先のみえない、快楽原則にもとづいたダイヴをするように、青空高く身を投げていく。「ぎゃはは」と。

しかし、そのあとにやってくるみじめな現実原則をきちんと描くのもいにおマンガの特徴です。ダイヴした後のコマにみられるのは、松葉杖とギプスのみじめな身体の泥臭い痛みです。つまりこれらはシステムや世界にいくら身を投げようとしても決してその思いのままには同期しえない、このわたしがかかえもつしかない〈内への身体〉ともいえるのではないかとおもいます。

いにおマンガの身体は、市川マンガの身体のように誰かのものでもないし、分解もされない。岡野短歌のように、システムのなかにあるものでもない。このみじめなわたしがどこまでも傷つきながらひきずりながら引き受けていくものでしかない。

これはどちらがいいという身体の価値観の問題ではなくて、どこに身体性の焦点をあてるのかという〈身体の所在〉の問題だとおもっています。改札を通るだけで、もしくはコンビニで防犯カメラから視線を向けられることでわかることですが、わたしたちの身体はシステムのなかにたしかにあります。そしてその一方で本を読もうとして手を切ったり、回転ドアで右往左往するような、泥臭いみじめな身体も抱えています。

これは〈身体の所在〉の問題であり、〈身体地図〉の問題だとおもいます。

とりあえず、岡野短歌の〈ひと〉の身体は、市川マンガの身体のようにどこかでシステムと同期している。これがひとつの岡野短歌の身体です。

わたしはあえて〈ひと〉といったのですが、もしかすると岡野短歌のなかでいちばん身体性を有していたのは、〈ひと〉ではなくて、〈犀〉だったんじゃないかとさえ、おもうんです。

この歌集のタイトルは『サイレンと犀』ですが、特徴的なのはこのタイトルにつけられた〈犀〉が徹底して〈不在〉として描かれているということです。〈犀〉はほとんどこの歌集に表面的にあらわれてこない。〈不在の犀(ふざいのさい)〉としてサイはあらわれる。

この歌集のたった一首のなかにだけ、犀はあらわれます。そのたった一首のなかにだけ存在する〈犀〉は、「生まれつき」の「耳鳴り」という固有のこの身体にしかない〈音楽〉という身体性をひきうけながら、この身体でしかない引き出せない、もうひとつの声にならない音楽としての「ため息=sigh」をつく。たった一回の、どこにも回収されえない音楽を。

それは同期しえない、システムにも回収できない〈表情〉としての〈音楽〉として、もしかするとこの歌集では犀だけが〈内なる身体〉をもつかもしれないのです。平坦な身体の戦場でそれでも固有の身体を問いかけるようにして。

生まれつき耳鳴りのある犀の吐く一夜にいちどきりのため息  岡野大嗣 

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