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2015年8月7日金曜日

【俳句時評】  松尾あつゆき『原爆句抄』に関して / 堀下翔



松尾あつゆき『原爆句抄 魂からしみ出る涙』(2015/書肆侃侃房)が刊行された。松尾は「層雲」に拠った自由律俳人で1945年の長崎原爆に遭遇している。1972年以来いくたびか版を変えて刊行されてきた『原爆句抄』であるが、松尾の孫にあたる平田周が尽力した今回の版が決定版になるという(平田「復刊に寄せて」)。

彼の句のうちもっとも人口に膾炙したものとなればこの句であろう。

なにもかもなくした手に四まいの爆死証明  松尾あつゆき

荻原井泉水の句集序文によるとこの句は1945年の「層雲」に「原子ばくだんの跡」(井泉水は「原子爆弾の跡」と表記しているが著者あとがきに従う)として発表された10句中の1句であるという。原爆投下から間もない時期の句である。「爆死証明」という耳慣れない言葉、ことに「爆死」という直截的な表現が一句の最後に置かれる。「なにもかもなくした手に四まいの」までが情報量も少なく、うすく平坦な文体であるがために、「爆死証明」が置かれることでバランスを失し、一句が異様に迫ってくる。

戦後しばらく経ってから建立された「原爆句碑」の一句目にも取り上げられている(長崎市HP)のであるが、〈なにもかもなくした手に四枚の爆死証明〉とじゃっかん表記が違う。この点について平田周が「一部「四枚」と漢字表記されているものもあるが、あつゆき自身は「四まい」とかな表記で発表していることをつけ加えておきたい」と指摘しているが、実際この平仮名表記は松尾の文体を決定的に特徴づけているものの一つである。掲句、〈四まい〉だけではなく〈なにもかもなくした〉もまた平仮名に展かれている。他の句に関しても、

かぜ、子らに火をつけてたばこ一本
ほのお、兄をなかによりそうて火になる
葉をおとした空が、夏からねている
蕎麦の花ポツリと建てて生きのこっている
(以上1945年の句)

と掲句同様に平仮名表記が目に付く。日常から断絶した事態に茫然自失とする意識のありようが、漢字となるべきところが漢字にならないという形であらわれているのかと思ったが、読み進めていくうち、これが句集前半に集中するものでもなく、

涙かくさなくともよい暗さにして泣く(1970年)
きけば石になっている石にあいにゆく(1973年以降)

と、集中を一貫する文体であるということに気づく。自由律独特の一見してあいまいな切れと相まって、どこかに和文脈が感ぜられ、論理では割り切れない情感がまとわる。1970年代になって書かれた〈きけば石になっている石にあいにゆく〉の「石」は、1969年の句に〈石になってとんぼうとまらせている〉(前書に「子の墓」)というのがあり、また〈きけば〉の次の句が〈つくつくぼうし吾子はいつも此の墓にいる〉なので、子の墓のことと思われるが、その「石」の存在は松尾自身がだれよりも知っている筈なのにも関わらず「きけば石になっている」と、さも初めての墓参であるかのように書きつけられる。夏の記憶を夏ごとにはじめから辿りなおしている感じがある。「きけば」とあるが誰に聞いたとは明示されない。独言がいつしか問うあてのない問いになったのである。自分の無意識、直感がその問いに対して「石になっている」と答えた。「あいにゆく」の「ゆく」には「これからあいにゆく」の未来形のニュアンスがあろうが、こころはすでに墓へ向かってしまっているような、現在形のニュアンスも感ぜられる。「きけば石になっている」と「石にあいにゆく」との間には意味上の切れがあるが、「いる」は終止形か連体形か判別がつかないために、初読でここに一呼吸を置くことができない。だからここには「石になっている」と聞いて「あいにゆく」と決めるまでの、絶え間のない意識の流れが再現されている。

本書成立までの経緯を整理しておく。

1904年:松尾、長崎県北松浦郡に生れる。
1928年頃:「層雲」入会。
1942年:「層雲賞」受賞。
1945年:8月9日、長崎原爆に遭遇。妻と三児を失う。長女生存。同年11月、佐世保市外に転居。俳句の推敲に熱中。この時期に「長崎文学」に句稿を送るが返送される。同年12月、句稿の一部が「層雲」冬季号に「原子ばくだんの跡」として初めて掲載される。
1948年:再婚。娘も結婚。被爆地を離れることを考え、長野県の高校に赴任。
1950年:「俳句往来」に手記「爆死証明書」を執筆。
1955年:アンソロジー「句集長崎」刊行。松尾の句が一般に知られる。同書序文を読み、終戦直後の「長崎文学」掲載不可の理由がGHQによる検閲であったことを知る。
1956年:「中央公論」8月号に「爆死証明書」の加筆版が掲載される。
1961年:定年退職。長崎へ戻る。
1970年:長崎放送が松尾を取り上げたラジオドキュメンタリー「子のゆきし日の暑さ」(芸術祭参加作品)を製作、優秀賞を受ける。
1972年:教え子の支援で『原爆句抄』(私家版)刊行。
1975年:『原爆句抄』、文化評論出版から出版される。
1983年:松尾逝去。
2008年:句文集『花びらのような命 自由律俳人松尾あつゆき全俳句と長崎被爆体験』(竹村あつお編/龍鳳書房)刊行。
2012年:『松尾あつゆき日記 原爆俳句、彷徨う魂の軌跡』(平田周編/長崎新聞社)刊行。
2015年:『原爆句抄 魂からしみ出る涙』(書肆侃侃房)刊行。また木版画家小崎侃が松尾の句を作品化した『慟哭―松尾あつゆき「原爆句抄」木版画集』(長崎文献社)刊行。

このような経緯を見ると松尾の作品が俳句における原爆文学として長い間断続的に注目を受けてきたものであることが分かる。筆者も高校生のときに長崎市を訪ね、郷土文学の展示で松尾が大きく取り上げられているのを見て彼の名前を覚えたものだった。

『原爆句抄』が再刊行の運びとなった理由は本年が原爆投下70年の年であるということに尽きよう。すでに松尾が没して久しいことを挙げるまでもなく戦時の証言者は年々世を去っていく。その中で残されるのは文字であって、われわれはその非肉声的なものをできるだけ肉声的に読んでいく必要がある。平成生まれの筆者にあってすら、たとえば少年期には「定年ニッポン」といったフレーズを頻繁に耳にしていたものであり、戦後がすでに70年に長じているとなると正直に言って気が遠くなりもする。どんな作品が残っているか以上にそれを受け手がどれだけ読んでいくことができるのかという点が問題となりつつある。

もっとも、その受け手の想像力は時代の隔たりが要請したものとは限らないかもしれない。最後にやや話が外れるが「詩客」「戦後俳句を読む」「俳句新空間」と掲載場所の変遷を経つつ四年にわたった外山一機の俳句時評の連載が先日終了した。「スピカ」で並行連載されていた「百叢一句」も完結。毎週毎月絶えず発表される膨大な批評に圧倒され、かつ影響を受けた読者としては一抹のさびしさを感じるものであるが、それはひとまずおくとして、ここでは外山がそれらの中で繰り返し用いた用語に「切実」があるということを指摘しておきたい。いささか感情的なこの用語を批評には馴染まないと考えた読者もいただろう。がしかし筆者にはある一句に対して切実さを感じざるを得ないその種の想像力が現代においてあらゆる局面で要請されているような気がしてならないのである。たとえば東日本大震災をめぐる状況はその最たるものであるように思われるし(一例を外山の文章から引くとすれば「俳句新空間」2015.3.17掲載の「「復興」する日本で『小熊座』を読む」がいい)、それに限らず、ゆれうごくリアルとバーチャル、世論と乖離していくかのように見える政治状況、その他多くの「断絶」が目に付くのが昨今ではないか。その断絶に立ち会うという行為がすなわち個人がもちうる想像力であって、それはたとえば他者の一句の表現に緻密に取り組むような営みから始まる筈である。



1 件のコメント:

  1. 年表の1975年、タイトルに誤りがありました。『原爆句抄録』→『原爆句抄』に訂正いたしました。

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