さいきん読んだ雑誌の中から、面白かったものをいくつか。
ダイヤモンドダスト朝刊全文音を消し 加川憲一 「海程」2015.6
ダイヤモンドダストは水蒸気が昇華した氷の結晶のこと。だいたい見られるのは朝方で、朝日がこれにさして空中がきらきらする。氷点下10度程度になれば見られるので寒いところに住んでいればさほど珍しいものではない。この句もまた変わりのない日常の一景である。朝刊を取りに外へ出たところにダイヤモンドダストが発生している。
本とは違って新聞は最初の頁から文字がびっしりと詰まっている。ぎゅうぎゅう詰めの文字はたしかに音にすれば喧しそうだ。その音が聞こえなくなるほどの寒さである、とこの句は言っている。見えている一頁目だけではなく「全文」が音を消しているのだからすさまじい。一日でいちばん身にこたえる朝の寒さである。
ダイヤモンドダストは細氷や氷塵ともいうが、ここは9音の破調になっているからいい。ドアを開けて身に触れた寒さに驚いている感じが出ているから。
噴煙の見ゆる街角卒業す 日原傳 「天為」2015.6
高校の卒業と読みたい。卒業の感慨が「街角」に象徴されるのであれば、きっとこの人はこのあと街を離れる。
主体が「噴煙の見ゆる街角」に気づいたのはこの時が初めてではなかろう。この街に生まれ育ったこのひとにとって、あるいはひとびとにとって、「噴煙の見ゆる街角」はある種のあいさつのようなフレーズだったのではないか。具体的にどこ、と言っているわけではない「街角」という言葉からは、そんなことが察せられる。繰り返し、手垢がつくまで「噴煙の見ゆる街角」と呼べばこそ、この街には愛着がある。
流觴曲水あるはんぶらに水おおし 高橋比呂子 「LOTUS」2015.4
水流に浮かべた盃が自分の前を過ぎるまでに詩を書く桃の節句の遊びを「流觴曲水」という。いまの歳時記では「曲水」ないしは「曲水の宴」で載っていることが多いがもとはこの名前だった。中国書道史の傑作、王羲之の「蘭亭序」(東晋)がこの流觴曲水の詩集序文であるように、もとは中国で行われ、のちに王朝時代の日本でも楽しまれた。
掲句は中国でも日本でもなく「あるはんぶら」であるという。スペインのアルハンブラ宮殿のことであろう。9世紀以降のスペインの歴史とつねにどこかで接してきたのがこの宮殿だった。豪奢なつくりをしていて享楽感が強いかと思えば、城塞として機能していた側面もある。そこで流觴曲水が行われる。異国で展開される空虚な遊び(高貴な遊びはだいたいにおいて空虚だ)。言い難い場違いな感じがこの句の情感である。「あるはんぶら」とひらがなに展かれているのは、カタカナでなければせめて中国的な情緒に近づくか、ということだろうが、違和感は隠せない。
一句の落としどころは「水おおし」である。流觴曲水の宴をしているのだから水の流れがあるのは当然である。それなのにここではことさらに「水」の存在が述べられ、さらに、それは「おお」いのだという。ばかばかしさすら感じないではない。水がおおければ宮殿ではいつまでも宴をつづけることができよう。やはり空虚だ。
卒業やバック転にて門を出づ 森美代子 「澤」2015.6
バック転ができる子はモテたと思う。運動神経がいい子はだいたいモテる。
門を出た先には人も車も通る。いきなりバック転で飛び出していくのはあぶなっかしい。中学生か高校生か知らず、その程度の分別もない子の方がこの年代ではモテる。
卒業式のあと、後輩、同輩、保護者たちが大勢いる前でそんなカッコつけちゃうやつ、好きだ。そんなことをしてカッコよくきまるやつはモテるに決まっている。バック転のうまいジャニーズJr.の誰かを思い浮べたい句である。
伸びるだけのび啓蟄の象の鼻 岩淵喜代子 「ににん」2015.春
啓蟄というのはどうもわらわらとしている。ほんとうは虫が出てくるだけの筈だが、啓蟄と言われるとほかのものも出てきたり、あるいは増えたり伸びたりする感じがある。それが春先の気分である。「啓蟄や」と切るのではなく後ろに持って行って「啓蟄の象の鼻」と直接修飾しているから、この句はなおさらその気分が強い。
「伸ぶる」ではなく「伸びる」だから口語。2回目は「のび」と平仮名になっている。どちらからも、おおらかな気分が出ている。
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