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2015年7月10日金曜日

 【特別連載】 追悼句篇 その3 -岩月通子の津田清子追悼句「晨」188号-  / 堀本吟


一) 岩月通子さんとの再会

 今回の紹介作は、私が作った追悼句ではない。
 が、津田清子さんが「沙羅」(昭和四十六年年七月創刊)の初期に投句しておられたというその人の追悼句と合わせて若干のエピソードを記録しておく。

 二〇一五年四月十日はひどい吹き降り。桜が咲いていた。私は、大和西大寺の「らくじ苑」という老人ホームに津田清子さんを見舞った際、その部屋で、「攝津幸彦を偲ぶ会」(平成十八年東京)の会場で出会ったこの女性俳人とほぼ二十年目に再会した。まことに不思議な縁であり、津田さんを介してしかも奈良、大和西大寺老人ホームでこういうことがあろうとは思わなかった。どちらかが訪問時間が三十分ずれてしまっていたらその機会には恵まれなかっただろう、と後で話しあったことだった。また、そのとき椅子席にぽつんとすわっていられた岩月通子の名札の女性はお名前は知っていたが詳しい俳歴も知らない方だった。まして、その頃からテーマにしていた津田清子の最初の主宰誌「沙羅」に投句しておられたなど知らなかったのだから。今回、改めて親近感を抱いた。
 津田清子さんが平成二十七年五月五日に亡くなられた。「圭」終刊(平成十二年八月)から三年も経つと、こういうことの情報はやはりわかりにくい。四月の事があったので関東の岩月通子さんにお知らせしたかった。岩月さんはおどろき弔電を打ってこられた。
 彼女の弔電は葬儀で読み上げられた。

女子の雄々しき一生菖蒲の日 (オミナゴノ オオシキヒトヨ ショウブノヒ)

 であった。イワツキミチコというくっきりした姓名がひびき渡り、その句は感慨深く覚えていたつもりがいつの間にか記憶の外になっていた。その後一度電話があり、彼女が、私との再会を機会に、攝津幸彦夫人である資子さんと久しぶりにお話したこと。いつかの西大寺での私の印象を取り込んで一句にしたので俳誌が出たら送る、というようなことだった。

二) 岩月通子の「晨」188号掲載句

  この七月八日にレターパックで送られてきた掲載誌「晨」7月号と流麗な筆跡のお手紙、津田清子さんへのお持たせとおなじ「大樹寺松風」なるお菓子が一棹(「松風」の風味があり、カステラ狀に柔らかく食べやすい)。思いがけぬプレゼント。いろんなところに気配りの感じられるのである。ともかくその予告の俳句を拝見した。以下の十句である。

堅香子の大群落に入りにけり    岩月通子 
堅香子の群落わが名呼ばれけり 
堅香子や旧初午の香積寺 
山頂や巨石にぽつとすみれ草 
川音の俄かに高し山桜 
  宇佐美魚目先生
早蕨や師の笑ひ声受話器より 

  津田清子先生
花の雨車椅子にて眠とうて  

  堀本吟さん
即吟で声かけ花の西大寺 
  
  悼 津田清子先生
女子の雄々しき一生菖蒲の日  

人間に出会ふ醍醐味雪月花 
     (以上「晨」平成二十七年七月号掲載十句。本文では天地揃え)

 このうち、第七句目が津田先生のお部屋の様子、四月十日の夕方のことである。外は、桜が散らないかと気になるほどの吹き降りの激しいその日の荒れた気候は私もよく覚えている。私も目にしたが、食事のため車椅子に座って、しかしそれが気がすすまず、眠いとかしんどいとか、すこしだだをこねておられたのだろう。車椅子に座ることがもう苦痛でお嫌なのである。

 八句目が、咄嗟に呼びかけた私の話しかけの様子。五七五で「お元気ですか清子さん」という呼びかけだったが、軽くしかも遠慮がなくなり、失礼かなとは思うものの、ふっと相手の表情が和らぐので安心する。上五の季語はなんだっただろう、「花の雨」だったか、「雨ですね」か、「菜種梅雨」はあまりそぐわないので別の時だったか。どっちみちそのときのものだったし、津田さんは気分が良ければ遠慮なく書き直される。先達に対して、どなたをもちゃんと「先生」と呼ぶ岩月さんは私の暗号のようなこの「清子さん」に少々驚かれたらしい。「即吟で呼びかけ花の西大寺」個人的であ有り場所も固有のもの、しかも普遍性をよびだしている。そして「花の西大寺」の華やぎが嬉しい。

 その日には別用があったので、珍しく私はドレスアップしていて、亡母の形見の晴雨兼用のスプリングコートも羽織っていた。それで津田さんの前に立ったのだが、すると、「ああ、ちゃんと服を着ているの」とつぶやき、それからこうおっしゃった。「聞きたいことがあったら、この次のときにお話します、今日はちょっと気分が優れませんから、またにしましょう」。 

 つねづね、この方になにか戦後俳句のことを聞きにゆく時には、身だしなみも少し改める。あちらも地味ではあるが身なりをととのえて、ネックレスとかブローチにも気を使われる。おたがい少し緊張してちゃんとま向かうのが常だった。で、私に関しては、そういう関係だという固定観念があったのだろうか?こんな時に始めて気がついたことだ。

 それから、身をうごかして「ベッドに横になりたい」と言われた。その所作はやや子供っぽく亡母の晩年と同じだった。しかし、車椅子を降ろしてしまうと夕食の食堂に行けない。勝手なことはできないのですこしなだめてみたがすぐに職員の人が食堂にお運びした。帰り道、津田先生、ほんとにしんどかったのかもしれない、と気になってきた。

 この会話が最後のものとなった。旅の途中で急いでいる岩月さんとはお話の暇もなく、近くの西大寺駅の入り口までお送りした。

 七八句目のこの句は、「攝津幸彦」や「津田清子」という俳人を仲立ちにして偶然にであった私たちも含めて、特に人間の晩年への関わり方なかんづく心理のあちこちするゆらぎが鮮やかに浮かび上がる。

  第九句目が,岩月さんのその追悼句、ああそうだったとその日の回顧とともに蘇る。

 この句では、菖蒲の葉を飾って男子の健康な成長を願う端午の節句、それに因んでいる季題が読み込まれている。津田清子という作家のキャラクターの一つ、遺影もキリッとしてニュートラルな佇まいといおうか、少女時代もお転婆清子さんの一面があったのである。これには私も共感した。津田さんに対して感じることは皆同じなのだなあと、湿っぽい感傷のかたえで私はふっとほえみたくなった。

 三) 異空間ー堅香子大群落

 ここで、第一句目にもどる。

 一句目の堅香子(カタクリ)の花の大群落になんの衒いも作為もなく入ってゆく人の姿を彷彿する。愛知県豊田市足助(あすけ)にはカタクリの広い大きな群生地帯がある。「すみれ草」、「山桜」など他の植物とも有機的な関連で生育している、こういう「植物群落」の土地だが、人間も自分も同じく生きるものとして異空間、異郷に入り込むようなこの書き出しがいい。思いがけなくそこで、こんなところにいるはずのない知り合いの誰かと鉢合わせして、名前を呼ばれる、私の場合と同じである。そのことが書かれてある。単純化された風景の中で繰り広げられる経験が具体性をなくしてここに詰まっている。この句の成功は、岩月さんの「堅香子」という古語の使用。非現実のリアリティが出てくる。

 もう一つ六句目にくる岩月さんが尊敬する宇佐美魚目先生の電話の声、これも遠いところからでてくるようで、早蕨の新鮮な緑と吹き上げる明るい声がうまくマッチしている。

津田清子作にも電話の句がある。これはすこし怖い。

ホントニ死ヌトキハデンワヲカケマセン 『七重』(平成三年三月・編集工房ノア)

 
四) 雪月花

 私の心に止まったのは第十句目である。

 これは、らくじ苑での出会いにかかわる場面、それへのオマージュだろう。プライベートな劇にかかわっていない読者には、そこまでも読み取れない。だが、これらが秀句に仕上がったそのそこには私たちの「出会いの醍醐味」が言葉の凝縮をもたらしていると気がつくはずだ。

 さらに、ここの「雪月花」とは茫漠とした言い方だ。対象世界はもっと広がって、その場所に。にさまざまな花を包み込んだ自然が広がる。「雪月花」は季語ではないが、日本の伝統詩や芸術が作り上げた美意識にかかわってくる。その大きさが観念の幅広さを逆に生かしたのが最後の句である。有季句が並ぶ中では、俳句作品としてはおもいきった冒険を感じる。だが、岩月句に最後にうたわれる「人間と会う醍醐味雪月花」が、死者と共存しているかもしれないこの世という存在世界の機微を伝える、という意味でこの収め方はすごくいい。

 ちなみに、高屋窓秋は以下のごとく雪月花を詠じている。

雪月花不思議の国に道通ず  
雪月花山河滅びの秒の音 
    (以上抄出 高屋窓秋『花の悲歌』一九九三年五月弘栄堂書店)

 この期に及んで私にはもう聞きたいことはなかった。言われなかったことは、津田清子の言としてそれを言いたくないから黙っておられたのである。ただ、お顔を見たら安心する。晩年の母に会いに行くような気もちで接した。

 和田悟朗氏の逝去のほぼ二ヶ月あと。桜の季節から一ヶ月立たぬこどもの日端午の節句に、夜八時頃急に胸が苦しくなられ、周りの気づかぬうちに逝かれたそうである。


 これら、戦後一時代をくぐった人たちの句や発言が、岩月通子さんの連作(というべきだろう)の中に溶け込んで、すべてが交感し響きあう。この十句、追憶の俳句として見事な詩的な結晶を見せていただいた。このような創作現場の内部に入れ込んでいただいたことを感謝したい。 


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