A 寺岡良信 追悼
青よりも淡い雨かも水無月葬 吟
六甲山系梅雨の雲影葬すすむ
石棺のミイラのため息野ばら散る 良信
恐竜の骨を晒すや野ばら風 吟
波がきて人魚の檻をあらふ夏 良信
海が好き 好きな人魚に檻被(き)せて 吟
泣女午睡に甘き凪がきて 良信
麗人は露台に佇つや時計草 吟
命終に夏鶯のいずこより 良信 北の句会に出句(VOL・73号)
B 寺岡良信略歴
一九四九年 神戸市生。
高校教師を経て、退職。立命館大学大学院に再入学。
二〇〇六年、詩集『ヴォカリーズ』(まろうど社)
二〇〇九年 詩集『焚刑』(まろうど社)
二〇一一年 詩集『凱歌』(まろうど社)
二〇一五年 詩集『龜裂』(まろうど社)
二〇〇八年十二月ごろから、北の句会に参加。
二〇一五年六月二十七日永眠。
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寺岡良信さんは、二〇〇八年十二月ごろから、私たちの北の句会に参加、癌が次々転移して手術もできず、抗がん剤が効かなくなり、ついに緩和病棟にはいるまで、二年間欠かさず投句、本業の詩を書く作業をやめなかった。福田知子、冨哲世、高谷和幸、大橋愛由等の属する詩誌「Melange」の編集長でもあ有り、経歴にあるように、詩の方が文學上の「本業」でもあったが、その俳句は、題材に独特なロマンチシズムがあることと、その奥に自分の死出の旅のための自己浄化のような意図があること、さらに、俳句の型を崩す傾向のある我々よりもキチンと定形を踏んでいることで注目をあつめ、わが「北の句会」でもしばしば話題になった。彼へ俳人として接した私の追悼文を同誌の「Melange」におくったので、ほとんど同時同文の掲載なるが、ここにも掲げておく。
寺岡良信さんを悼んで
七月二十四日、宝塚市立病院に末期ガンで緩和病棟に入っている寺岡さんを見舞った。私と虻曳と息子の荘太と一家でいった。これがお逢いできる最後かもと思いつつごく普通の歓談、しかし、合間に「この夏保つかなあ」と言われるので、「大丈夫もう一度来るわよ」、と私は言った。二日後に逝去された。そのことがかえってやりきれない。
寺岡さんは四冊の詩集を持つが、俳句の定形への関心も強かった。
霧の村石を放らば父母散らん 金子兜太
酔っぱらうと、この句を朗誦した。「霧の村」と「父母」とは、私の受け留め方では極私性とミニマムな社会性の根幹にふれているはずだ、寺岡さんはいっしょに石を投げながら日々の時間の中のこもってくる複雑な思いを散らしたのだろう。詩や俳句の形で追求していたものがなにか、ということが、この句の偏愛ぶりからなんとなくうかがわれる。
彼には内面につよい規範精神があったように思う。その感情の正義に因って生きたのであろう。句がわかれば詩もわかるという濃厚な関連をもって、二つの詩形を、どちらも可能なかぎり端正に書きわけている。下の句は、彼の存在の美学を吐露したのだろう。
竜骨に揺られて浪の孤児となる 寺岡良信
一方、寺岡さんは、諧謔が好きでときどきふっと面白いことを言ってまわりを笑わせたから、そこから俳句本来の奥行に触れその世界の自由闊達さにに憧れていたのだろうかとも思う。 ともあれ、端正な俳句と欠かさぬ投句によって、北の句会を支えてくださったことをありがたく思う。
平成27年7月17日 堀本 吟(北の句会)
追悼編の俳句に、二箇所、ミスがあったので、ここでただしい句を披露しておきます。
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、命終や夏鶯のいずこより 堀本 吟
私の不注意から表記が曖昧になり、作者名が「良信」となっていますが、正しくはの寺岡さんへの追悼句です。
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もう一箇所、引用句に
「石棺にミイラの吐息野ばら散る 良信」という句があるのですが、それを「ため息」と書いていますが、「ため息」ではなく「吐息」です。
「石棺にミイラの吐息野ばら散る 良信」
に応じて
恐竜の骨を晒すや野ばら風 吟
と並べてみたのです。
以上訂正しておきます。 (筆記者・堀本吟)
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