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【ピックアップ】

2014年10月31日金曜日

登頂回望その三十八・三十九 / 網野 月を

その三十八(朝日俳壇平成26年10月20日から)
                          
◆水澄めり胎児赤子になる日待つ (小平市)久保奈緒世

金子兜太の選である。評には「十句目久保氏。身籠もる人の澄んだ心情の日々」と記されている。お目出度を見守る側の方かもしれないが、この場合やはり作者ご自身がお目出度なのであろう。出産を待ちわびる充実した日々を送っていらっしゃるようだ。無事のご出産を祈念します。上五の「水澄めり」は季節や住居など環境を言っているというよりも、作者の心境が投影された景であり、作者の心が「澄めり」であろうと考える。明確な理由はわかないが少しずつ透明度を増してゆく心持ちを表わしている。

◆爽やかに天文学的ひとりかな (岐阜市)阿部恭久

長谷川櫂の選である。評には「一席。宇宙の中にただ一人。「天文学的ひとり」といえば、さらりと乾いて、まさに爽快。」と記されている。「天文学的数字」という常套句を「ひとり」とやり直したのである。意味は逆転するのだが、解かり易さを産み出しているようだ。ただ、「天文学的ひとり」は、例えば人類界ならば無可有事であるので「ひとり」の個、もしくは「ひとり」の個性と解したい。

加えて季語の斡旋は議論があろうが、「爽やかに」が中七座五の状況の気分を言っているのであるから、この措辞へ対して作者の言った者勝ち的認識で、筆者は肯ずる。

◆曼珠沙華死者は生者とともに在り (東京都)たなべきよみ

大串章の選である。評には「第一句。死者は生者の胸中で生きている。その生者が亡くなれば死者も消える。」と記されている。句としては、死者と生者の位置関係が逆でも成立する。むろん句意は異なって来るのであるが。選の評も「生者は死者を思って生きている。生者が生き続ける限り死者も又生き続ける」となるだろう。

上五の季題「曼珠沙華」は所謂付き過ぎではないだろうか?


その三十九(朝日俳壇平成26年10月27日から)
                           
◆青色の光を祝い月赤く (大阪市)加藤英二

大串章の選である。評には「第一句。青色LEDのノーベル賞受賞を祝って赤い月が輝く。「ノーベル賞受賞に沸く日赤い月 森本幸平」にも惹かれた。」と記されている。筆者などは受賞報道が記憶に新しいので意味がよく解るのであるが、やがて記憶の薄くなる頃合いには掲句の上五中七の「青色の光を祝い」は意味が通りにくくなるのではないだろうか?

朝日俳壇の掲載の規定なのか前書は載らないようなので、難しいことかもしれないが、出来れば前書が欲しい。前書は「和歌や発句が贈答・挨拶など作品成立の当座性との関わりが深いため、それを散文で補うことが必要とされた。」(『俳文学大辞典』、角川書店)と解されていて、掲句はまさにノーベル賞受賞への賛辞であるから、後世の読者へは尚更に作品成立の機会が何処にあるのかが記されていた方がよいだろう。そういう意味では、評の中にある句の方が句中に「ノーベル賞受賞に沸く日」とあるから解り易いようであるが、こちらでは「青色LED」が判然としない。

◆蚯蚓鳴く悩むことさえ不器用で (清瀬市)峠谷清広

金子兜太の選である。評には「峠谷氏。自虐達観。」と記されている。季語の斡旋は見事である。句意にピッタリであり、合い過ぎていて怖いくらいだ。中七に「悩むことさえ」とあるので、手先の不器用さだけでなく、生き方や対人関係においてさえ不器用な自己の心持ちを表わしているのだろう。が、中七座五のロジックにはパラドクスが隠されている。そもそも「悩むこと」は「不器用」なことなのだ。生き方に器用であれば悩まずに人生を巧く切り開いて行くものだ。自己の気持ちを器用にコントロールすれば悩まずにいるだろう。ただ器用な生き方をする人間とはあまり付き合いたくないものだが。

◆秋の蚊やパソコン閉ぢて妻の顔 (甲斐市)堀内彦太郎

金子兜太の選である。秋の蚊の他に、秋の蛍、秋の蝿、秋の蟬などが古来からある「秋の・・」である。どれも盛夏に活躍する昆虫であるから飛び方や鳴き方、すばしこさは盛夏のそれに劣っている。上五「秋の蚊や」は切れ字を伴って、作者の蚊への同情を表現しているのではないだろうか?筆者の勝手な考えである。

ところで「妻の顔」というものは何気なしに見るものではない。彼女の機嫌や声をかけるタイミングを計って見るものであるから、パソコンの中に秘められた意図がある様で想像を掻き立てるものがある。意味が判然としない分、どうにでも面白く読める句である。



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