以下、47年8月以降(46年6月~47年7月の作品は私の手元にないので省く)、沖から名前が消えるまでの十時の作品を掲げてみる。前回で述べた「ここ2年余り殆ど俳句が作れない。」を如実に示すデータとなっている。
ちなみに、書き漏らしたが、第1回(47年5月号)の20代特集参加者は、大関靖博・酒井昌弘・首藤勝二・陶山敏美・千賀潔子・十時海彦・中台政雄・能村研三・堀江棋一郎・森岡正作・丸茂和志等であり、十時も初参加している。
【47年】
夕虹の根において来し父母よ 8月
鵜飼火のこぼれて水も燃ゆるなり
飛魚は夜もとぶ海を去りたくて●
暮れ易きもの唖蝉と人の顔 9月
枇杷むくや瀬音にまじる夜の気配
遠山へ夜の雲移る螢籠● 10月
ワルツより抜け出て探す青い蜘蛛
(この月、俳句コンクール3位入賞)
風呂焚くや煙の先が夕焼けて 11月
菊人形みな華麗なる死化粧● 12月
星あまた落ちゆく果ての写真館
【48年】1月に沖作品6席となる。沖投句注で最高の席字であった。
木枯に飛びたさつのる風見鶏● 1月
鮟鱇や臓腑抜かれしあとの闇
(この月、評論執筆)
雪国の夜の重さや炉火の上 2月
ヴィナス像両腕なきは冷え易し
(この月、評論執筆)
凍鶴の羽拡ぐとき山河あり 3月
一滴の湖との約にスワン来る●
滝水の落ちたきままに凍りけり 4月
日曇ればまた合掌す冬の蝶
夜の玻璃戸指は冷たき野火に触る 5月
撃たれたる雉子は落ちゆく重さもて
(この月、青年作家特集○)
落花享く黒人の手は黒からず 6月
陽炎へる梯子は天の忘れもの
モノレールの全長進む花の上
麦秋や狂気のごとき日が一輪 7月
水の輪の噂撒きゆく水すまし
多感なる緑の肉よ雨蛙 8月
― 9月
蜘蛛は脚をたたみてねむる星の中 10月
蟹はただ爪捧げをり虹の中
(この月、3周年記念号評論コンクール3位入賞)
機音の絶えし故郷やいわし雲 11月
星飛びぬわが二十五の額の上
極寒の大絶壁ぞ円空仏 12月
灯台のうなじを昇る今日の月
【49年】
雲も低きみちのくに入る暖房車 1月
バスに弾む林檎のような少女たち
雁の空口腔暗く仰ぎけり 2月
木枯しにさらはれ易し韓国語
冬の滝一糸まとはぬ水落とす
勝凧の昂ぶりなだめつつ下ろす 3月
月雪や絵本の中の鴨撃たる 4月
鍵穴の中に鶴ゐる雪明り
― 5月
(この月、20代特集○)
煙突に春の雲来る日曜日 6月
(この月、吉田利徳論執筆)
― 7月~12月
この時期が十時海彦の絶頂であろうか。前号の文章に従えば、49年4月(作品で言えば5月号)から文部省に入省し作品を作る余裕がなくなったことになる。実は同世代である私も、この時期2カ月程欠詠しているし、確認していないが正木ゆう子も欠詠があったようである。「沖」にとって、ことによると俳壇にとって、この時期は危機的な状況であったのではなかろうか。
十時はやめたのに、われわれはなぜやめることがなかったかを考えると、それは仲間がいなかったからであるかもしれない。十時は東大俳句会という組織があったから、その行動は組織の影響を受けていた、つまり卒業と同時に東大俳句会の影響が断たれてしまったのだが、我々はそんな組織を持っていなかった分だけ個人の責任で続けて行かざるを得なかったのであろう。
以後は彼がいかに俳句に興味を失っていったかを示すデータとなっているにすぎない。作品も精彩を欠いているようである。その中で唯一、「評論コンクール1位入賞」が燦然と輝いた記録となっている。俳句を「作ろうという気が起こらない」(前号参照)にもかかわらず、評論は書けるのである。しかし、評論を書いても、俳句を「作ろうという気が起こらない」という点で変わりはしなかったようである。
【50年】
― 1月~2月
北国の空より林檎あまた賜ふ 3月
大学は大き暗闇霜育つ
― 4月
愚かなる橋長くして川涸るる 5月
大いなる白鳥の尻歩むなり
(この月、青年作家特集○)
― 6月
遠山は雲の古さと花いばら 7月
さざ波となり芦の芽に風遊ぶ
葉より跳ぶ肉一片の青蛙
― 8月~12月
(10月、評論コンクール1位入賞)
【51年】
― 1月~5月
(5月最後の20代特集○)
0 件のコメント:
コメントを投稿