前句「肉附の匂ひ知らるな春の母」にて肉附になった未生の僕は、産道からこの世に生まれ、産衣(「うぶぎ」と読むと予想)を着せられている。しかし、その産衣が水を含み重たい状態である。「溺れる」という危険を孕む言葉、加えて酒、女、ギャンブル・・・俗世間ではよい表現には使われない言葉が「春」「・・そめ」と祝辞の接尾語を伴っている。 「溺れる」ことの言祝ぎである。
すべては「春」という意味が幼児のめばえから大人の異性間の情欲を含む多義であることがなんとも淫らさと雅やかさを兼ねる雰囲気なのである。
ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」の絵画もしかり、東西問わず、春は愛の季節、生命誕生の季節である。ボッティチェリの「春」にはさまざまな解釈論が展開されてきたが、それと同じく、敏雄の「春」の言葉を用いた句にも多くの解釈が成立する。
ちなみに「春」は、その漢字の成り立ちの過程で「冬の間地中に閉じこめられていた植物の根が日の光を受けて芽を出そうとする。」という意味を表す。(「常用字解」白川静)
おおむね、敏雄が「春」という言葉を使用した100句目、101句目、102句目には、春の季題から意味が飛躍し、大人の異性間の情欲として捉える解釈に傾くと思える句が並ぶ。そして性的情趣が伺える鈴の句も「春のくれ」で季節は「春」である。
肉附の匂ひ知らるるな春の母
水重き産衣や春を溺れそめ
晩春の肉は舌よりはじまるか
鈴に入る玉こそよけれ春のくれ
古俳句に精通する敏雄であるが、近世の句に「春」の語そのものに情欲を含蓄するものとして使用している句には簡単に巡り合えない。かろうじて蕪村の「春」を詠み込む句にその雰囲気があるように思える。
ゆく春やおもたき琵琶の抱心 蕪村
枕する春の流れやみだれ髪
寝ごころやいずちともなく春は来ぬ
また、「春を溺れ」と「に」ではなく「を」の助詞使用を選択しているのは、直接の対象として「溺れ」を強調するためと判断する。
次の102句目の<晩春の肉は舌よりはじまるか>について、加藤郁乎は掲句を『眞神』のなかの最高作としていた。
この一句、この句集のなかでの最高作であるばかりでなく、昭和俳句の名句として銘記されるべき絶頂のポエトリ、パノラマを持っている。マラルメじゃないが、「肉体は悲しい、ああ、すでに読み終わった。すべての書物は」と感じさせるような、具体的な生の旅立ちへのあざやかな目覚めがある。乗り物に乗っていても、夜の酒を飲んでいても、ふっと舌頭によみがえるこの句を中桐雅夫、藤冨保男、関口篤の面々に披露したら、ぶったまげていた。オーデンやカニングスやトマスにだって、このような恐ろしくエロティックな一行はないから当然であろう。作者が生涯の師と仰いだ亡き三鬼の「広島や卵食ふ時口ひらく」と並んで、読むともなく、声に出すともなく、舌頭百転、性的なもののあはれを誘い出す傑作である。 『旗の台管見』(初出/「季刊俳句」昭和49年1月2号)加藤郁乎
加藤郁乎が記している通り、「春」という語そのもののエロティックさを含蓄し、俳句をより高度な大人の遊びとしているのは三橋敏雄がパイオニアなのではないだろうか。
さらに上掲句は、春が象徴するような性愛をも含蓄しつつ、人として生まれた人間の業を詠んでいるともいえる。生まれてからは産衣を着、彼の世に旅立つときに死装束をまとわせる。
上掲句と対になるのは、16句目の下記かもしれない。
著たきりの死装束や汗は急き溺れるのは三途の川も俗世界も同じこととも読める。溺れないためには、衣を纏わず裸でいられたならばどんなに快適だろうと想像する。しかし、衣服は人間としての特権であり人間であることの象徴でもある。産衣を着せてもらったからには、もう母親の胎内にはもう戻れないのである。生まれることと死ぬということ。敏雄句にはその境界線がないといってもよい。
さらに「溺れ」から、敏雄の有名句を重ね合わせる。
共に泳ぐまぼろしの鱶僕のやうに 『まぼろしの鱶』産衣で溺れそめた僕は現世という水の中で泳ぎはじめる。時には群れの中で時には孤独に。もう会えない仲間とも共に時を過ごすことができる。見えないものをリアルに書く。生きていること死んでいることの境を取り払う。いずれも作句としては至極高度な技でありすぎる。
17音の句自体が言霊となり誰も三橋敏雄を越えられない偉大で難解な作家、加藤郁乎がiマラルメの引用を使用したように、敏雄の作品の存在はマラルメの言葉(翻訳はされているが)が引き合いに出されるのは、両者の言葉への意識に共通点があるといってよいのかもしれない。
敏雄もマラルメも両者の作品を正しく解釈し理解するのは至難の業といえる点、難解であるがゆえにありがたがられる。そして名前だけが独り歩きしなんだかわからないがありがたい「文学的偶像」になっているのではないかという点でもマラルメとの共通事項は多い。読者が三橋敏雄作品を理解するための労力は、まだまだ途上にあるといってよい。それが名句の条件とも言えるのではあるが。
参照(といっても参考にはならないのではあるが)として晩年の敏雄自身の執筆による<私の作句技法>を引用する。
これまでの間、私は自作の俳句について最初の読者である自分が読んで感動する、といった結果に、数はごく少ないけれど恵まれている。それは自他を超えた先例のない表現を得て、初めて新しく経験できた世界だからだが、それらの俳句表現に共通して当てはまる技法は見出せない。言いかえれば、一句一句そのつど異なる一回性の表現意図、また内容の展開について、同じ技法をもってしてはどうにも間に合わないためである。
その意味でも、すでに効果が判明している既成の技法は、あえて使いたくない。だからといって、手さぐりの無方法では当たりを取る確率は低い。おおむね自分で納得できない駄作の量産につながるのである。
むろん私にも、自然の季節的現象に虚心に対応して、時に心うたれた発見を一句の言葉に移し替える、といった喜びに出会うことは少なからずある。そういう際、最も力になるのはいわゆる写生に基づく技法だ。しかし先に写すべき対象が存在する句作りとは違って、事前に表現したい対象としての感動のたぐいは全くなく、また、ないがゆえに自身の俳句の表現の創出によって感動したい、というほとんど唯一の目的である持続的な欲求の在り方が、実は私をして俳句を作らしめている、と言っていい。(新日本大歳時記 講談社 2000年)
「自分が読んで感動する」・・・アーティストは大方、自己陶酔型である。敏雄の「は」の使いが多いのもナルシスト故の助詞使いなのかとも思う。しかし俳句上では、その自己陶酔が読者に受け入れられるのかどうかというのが最大の難関となる。 文芸、芸術あらゆる分野で作品といえるものは多くを語らず、その姿が美しいことに限る。 その意味で三橋敏雄は作品、その作品から見えてくる人となりの美しさが空前絶後なのである。
三橋敏雄の熱烈な信望者は多い。そして現在、生きていた敏雄を知る方々、三橋敏雄夫人、ご令嬢がご健在である。敏雄が三鬼、白泉の功績を世に残したように、「三橋敏雄全句集」「三橋敏雄読本」が世に出るのはとても近いことなのではいかと思うところだ。
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