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2014年5月16日金曜日

【小津夜景作品 No.23】 まれびとを待ちながら 小津夜景

(デザイン/レイアウト:小津夜景)








     まれびとを待ちながら    小津夜景

……ここエレホンには『出生告白状』といふ制度が存在するが、これは近代的主体の確立の強制ではない。エレホンの法廷は「我々には選択が許されてゐない。責任とは何か? 責任を持つとは要求されたならば答へを与へねばならぬといふことである」と述べる。これはサルトルの自由と責任の概念に等しく、自己とは社会的自己であり状況の内にあるといふ点も近い。だが両者には決定的な違ひがある。それはサルトルの実存主義が政治的主体といふ立場へ不可避的に向かふのに対し、エレホンの住民は出生告白状といふ「装置」の導入によつて契機的主体に意識的に留まろうとする点だ。

……エレホンの道徳律は「出生と同時に人間は自由の刑に処せられた」とは言はず「告白状により自分で自分を自由の刑に処する」と主張する。この主張は、本質に先立つ筈の実存が、同時に世界と呼ばれる構造の中に投げ込まれてゐるといふ「不可避的本質主義」なる主体即ち「政治的」主体(本質主義は選択せざるを得ない政治的立場を強要する)でもあるといふ混乱をうまく迂回する着想だ。この妙案のお陰で、私たちは自分と世界との不和を、理念といふ超越論的位相で埋める必要が全くない。

……かうしてエレホン(Erewhon)では「いまここにある(now-here)世界なる非実体」と「どこにもない(no-where)私なる実体」とが、流れる水のやうに日々還り逢ひつづける。そして互ひからその存在を証明せざるを得ないこの二つのものが逢ひ、重なり、再び離れてゆくといつた反復に余すところなく浸る勇気、それを私たちは真の理性と呼ぶだらう。さう、たとひエレホンがユートピアを転じた狂奔のネク……おや、また誰か来たやうだ。


飲み干せばまれびとのゐて白き芝

水盤はねざめの雲を泛かべたる

ばうふらよ微熱をうつらうつら帯び

梳るやうに茂みを聴いてゐる

風骨の時に萎えたるジェラートか

空蝉は水を呑むとき少し似る

まるやきの子豚さみしきみなみかぜ

宵越しの息が水母となつてゆく

かはほりの空のほのかな疎外かな

遊泳のどこかで月と混ざりけり





【作者略歴】
  • 小津夜景(おづ・やけい)

     1973生れ。無所属。





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