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2014年5月16日金曜日

「俳句空間」№ 15 (1990.12 発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(続・8、川崎展宏「籐椅子が廊下にありし国破れ」) / 大井恒行


川崎展宏「籐椅子が廊下にありし国破れ」

                                     
川崎展宏(1927〈昭和2〉1.16~2009〈平21〉11.29)の自信作5句は以下通り。

秋のくれ皿いつぱいに茄子の絵         「俳句」平成元年1月 
詰まつてゐた形のまゝである蜜柑        「俳句」  〃 4月 
紅梅にゆびをさし入るゝごと日差        「貂」平成元年6月 
  特殊潜航艇の残骸に触れて 
潜航艇青葉茂れる夕まぐれ           「文藝春秋」平成2年7月 
籐椅子が廊下にありし国破れ          「 〃  」   〃 

一句鑑賞者は対馬康子。その一文には「『国破れて山河あり』と杜甫が詠った、そのような永遠の山河を詠おうというのではない。そこにあるのは、もっと刹那的な、不在の主人公の生活を象徴する籐椅子であり、廊下なのである。(中略) 籐椅子が廊下にあったということを思いながらも、体制が崩壊したことを知り、かつ、その死んだ体制を愛しているような詩精神の存在、高浜虚子の主張する虚無の美学というものであろうか。/永遠ではない、はかない一井のひとこまを、激動の時代背景に詠うことがあってもよいであろう。/ふり返った時間の一瞬の静止。心のファインダーでのぞく遠い日の一コマに、籐椅子は軋みもせずに映し出されている。たしかに、主人公の狼狽ともいえる呼吸が感じられる」とある。対馬康子は、この文の前段に「国破れ」は第二次大戦のことだろうと述べ、また、東ドイツのことにベルリンの壁の崩壊とを合わせて、思いも馳せている。

展宏がこの句を書いたとき、渡邊白泉「戦争が廊下の奥に立つてゐた」の句が脳裏を過っていたのではないかとも想像する。「国破れ」とは何より戦争に負けることであるからだ。廊下の奥に立っていた戦争、その廊下に今は、誰使うもこともない籐椅子が置かれているのである。廊下だけは戦争があった昔も、戦争に敗れてしまった今も変わらない。誰も座っていない籐椅子はただ眼前にあるだけなのだ。しかし、対馬康子は、その光景に「主人公の狼狽ともいえる呼吸」を感じている。狼狽の在り処こそが、昭和一桁世代の展宏が歩んで来ざるを得なかった昭和という時代と重なってみえる。

杜甫の「国破れて山河あり」の漢詩の題は「春望」、「城春にして草木深し/時に感じては花にも涙をながす/別れを恨んでは鳥にも心を驚かす/烽火三月に連なり・・」と続く。杜甫46歳(657年)、長安での作である。当時、長安は人口二百万、世界最大の都市だった。その長安も戦によって瓦礫と化し、ぺんぺん草が生い茂っていたのである。


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