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2014年2月28日金曜日

【俳句時評】 形式の「記憶」を記憶すること ―三・一一以後の俳句にむけて―  / 外山一機


東日本大震災の翌年に刊行された『詩歌と戦争』(中野敏男著、NHK出版、二〇一二)の後書きに、次のような言葉がある。

本書では、震災から戦争へという時代の見通しをもって、主に一九二〇年代の大正期から三〇年代の総力戦体制期に到る文化史の連続について考えてきました。これは、満州事変に始まるアジア・太平洋戦争の時期を特に「一五年戦争」と区画し、この「戦時」とそれ以降の「戦後」とを〝戦争〟と〝平和〟という二項に色分けして対照させる、これまでの日本の常識となってきた現代史理解に、意識的に異を唱えるものとなっています。特にアジア・太平洋戦争の時期については、繰り返し集中した議論もなされ特集や講座の類も作られてきていますが、この時期をそこだけ「戦時」と特殊化して主題としたり記憶したりするというのでは、歴史認識にかえって多くの欠落や歪みを生むことになるだろうという考えです。

「関東大震災とそれを前後する一九二〇年代のこと」を「戦争に向って進んだ民衆の同時代経験として」とらえた本書は、奇しくも震災直後の上梓となったが、その指摘するところは三・一一後の今日においていよいよ重みを増しつつあるかのように思われる。そのようななか、先頃品田悦一の『斎藤茂吉 異形の短歌』(新潮社、二〇一四)が刊行された。品田には近代国民国家形成の過程で「万葉集」がいかにしてナショナル・アイデンティティーの根拠とされるに至ったかを論じた『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』(新曜社、二〇〇一)、斎藤茂吉を扱ったその名も『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』(ミネルヴァ書房、二〇一〇)などの著作があるが、本書ではさらに、万葉の古語を駆使した茂吉の歌の本質に迫るとともに、生前没後の茂吉評価の推移、とりわけ「死にたまふ母」がいかにして教科書の定番教材と化したかを論じている。

『万葉集』に対する茂吉の愛着は、古語の使用が奇異な感覚を喚起することと表裏一体のものであり、万葉の「伝統」などとは本来無関係だった。ただ、世間は茂吉を伝統の体現者として扱い、あろうことか本人までがその役を引き受け、全力で演じた。その結果、定評はますますまことしやかなものとなってしまいました。世が世なら『万葉集』と全く接点のない生涯を送ったはずの「みちのくの農の子」が、歴史の流れのなかで紛れもない近代人となったこと―茂吉と『万葉集』との根深い因縁は、煎じ詰めればこの一点に帰着します。それは前近代には絶対に成立し得ない事態でした。

戦後、いわゆる第二芸術論をはじめとする短歌批判のなかで批判の対象となった茂吉だが、品田の茂吉論はこうした批判が茂吉の戦時下における活動を駆動させていたものの根深さを必ずしもとらえきれていないものであったことを示唆している。たとえば、八月一五日の降伏をうたった歌と一二月八日の宣戦をうたったそれとが「そっくり同一」であることを指摘しつつ「短歌形式が今日の複雑な現実に立ち向かう時、この表現的無力は決定的である」と述べたかの有名な臼井吉見の「短歌への訣別」にしても、臼井が以下のような万葉集理解に立つ限りにおいては、事態の本質をとらえそこなっているように思われる。

万葉人が無意識的になし得た調和的世界の獲得が、複雑極まりない矛盾を包含する現代社会に於て、それを志すアララギ人に異常な苦悩を強いたことは、もとより当然のことであろう。

僕たちはいまや、ここでいう「万葉人が無意識的になし得た調和的世界の獲得」なる前提の来し方こそが実は問題であったのだということを知っている。のみならず、一九二〇年代以降の茂吉の活動―すなわち、一九二一年から三年間にわたる滞欧から帰国した茂吉が折しも関東大震災からの復興で好況を呈していた出版界に迎えられて執筆に勤しんだこと、一九二六年の島木赤彦の死にともない「アララギ」の中心人物となったこと、さらには日中戦争勃発とともに戦争詠に手を染めながら昭和初期の万葉ブームの渦中にあって大著『柿本人麿』の執筆を開始したこと―を茂吉の一続きのものとしてとらえる視点を持つことも重要である。だがそれ以上に肝要なことは、このような茂吉の活動の周囲には、それをまさに同時代の経験として共有していた人々がいたということを知っておくことであろう。たとえば芳賀徹は茂吉の戦争詠について次のように述べている。

 聖戦を礼讃せねば歌人ではなかった。戦争礼讃の歌を発表したから戦犯だなどというのは後から言うことであって、茂吉にとって汚点ではない。我々が「海ゆかば」を歌って涙を流していたようなものです。(芳賀徹・藤岡武雄・三枝昂之「鼎談―茂吉という不思議を考える」『国文学 解釈と鑑賞』至文堂、二〇〇五・九)

 ここで芳賀が披瀝している、茂吉の戦争詠と「海ゆかば」の歌唱という二つの行為を同一線上に見るような感覚は看過すべきものではないだろう。両者は同時代の経験であって、のみならず、茂吉の戦争詠が批判の対象となったように、こうした経験は戦時下のそれとして特化して思考されることがあった。先の『詩歌と戦争』で示されているのはこうした思考への危機意識であったろう。戦時下の経験を特化するのではなく、それ以前・以後の経験と一続きのものとしてとらえなおすこと。こうした視点から見えてくるものは確かにあるように思われる。

けれども、こと俳句においては、やや事情が込み入っている。というのも、たとえば、高浜虚子が俳句は戦争に何の影響も受けなかったと発言したように、俳句においてはむしろ句作という営みについて、戦時下のそれと、それ以前・以後の営みとが一続きであることこそが強調されてきた面があるからである。しかしながら、戦争と俳句との関係を考えるときに、先の虚子の発言を受けて、戦争に影響を受けたか否かということを焦点化してしまうならば、その思考はどこか歪さを伴うものになりかねない。僕たちは、その正否について議論する前に、影響を受けなかったと喝破するその発言そのものに向き合うとともに、そのように喝破する者の戦時下のありようついてもっと知ることがあってもいいと思う。

折しも、樽見博『戦争俳句と俳人たち』(トランスビュー、二〇一四)が刊行されたが、これは誓子、草城、草田男、楸邨らの戦時下における活動を論じるとともに、戦前・戦中の俳句入門書について論じた一書である。とりわけ、戦前・戦中の俳句入門書を扱った本書後半の内容は、この分野の先行研究がそれほど多くないだけに貴重なものだと思う。


本書において樽見は日本文学報告会の幹事長を務めていた富安風生の文章を引いている(「俳句も起つ」『俳句研究』一九四二・二)。樽見が引いているのは「国家が生死の巌頭に立つとき、その現前の事態に超然とした世界に立て籠つてなどゐられないといふのが、われわれの気持だと思ふ」としつつ「自分の芸に生きること、自分自身を生きとほす気持に真実偽りがないのならば、それが目の前のこの大きな現実と遊離するはずがないのである」「自分のほんとの俳句が、すぐこんにちと取組んだ、こんにちの時代に役立つやうなものになつてをるはずなのだと思ふ」と述べている部分である。樽見はこれを「風生が伝えたかった」内容であるとしながら、次のように述べている。


これでは結局、従来と何も変わらない。変わらないのはある意味けっこうだが、気持ちと掛け声だけは非常時を叫んでも、作る俳句に死に直結する戦時の真剣さ、切実さはほとんどない。もちろん自分の立場や生き方を疑うような観念もない。もっともそれは風生だけでなく、徐々に戦況が悪化し、全国の都市への空襲が日常化し、自らの死が現前のものとなるまでは、一般人共通の感覚だったように思う。

ここに見られる風生の言葉は、戦時下にあっても、いや、だからこそ花鳥諷詠を維持することの正当性を主張するものであり、ともすればこれはそのまま、戦争は俳句に影響を与えなかったとする虚子の発言に接続するものであるように思われる。これを樽見が「一般人共通の感覚だった」といい、一方で、「徐々に戦況が悪化し、全国の都市への空襲が日常化し、自らの死が現前のものとなるまでは」と限定しているのはもっともなことだろう。だがもう一歩踏み込んで考えてみると、この「一般人共通の感覚」なるものを信用するならば、先の虚子の発言は常軌を逸しているともいえる。さらにいえば、反ホトトギス的立場の作家たちのほうが常識的な方法に基づく成果を見せていたのであって、花鳥諷詠は異端であるというような、従来の俳句史観からするといささか逆転した風景さえ見えてくるのである。実際、虚子が自身のこの発言に対して「他の文芸は皆大いなる影響を受けた、と答へる中に、又、私以外の俳人は大概、大きな影響を受けた、と答へる中に、一人何の影響も受けなかったと答へるのは、痴呆の如く見えたであらう」(『虚子俳話』東都書房、一九五八)と述べているのは、この逆転した風景がよく見えていたことの証左ではないのか。そして、戦時下においては句作という営為が状況に影響されるのが当然であるとするならば、第二芸術論の読みかたも変わってくる。つまり、桑原武夫の指摘を待つまでもなく、自らのおかれた状況に根ざした切実な句作はいわば当然のことであったのであって、にもかかわらず桑原があのように言わざるをえなかったのは、そうした社会状況のなかで詠んでいくという至極当然の方法がさまざまな風圧のなかで閑却されていったのと同時に、戦時下においては、むしろ状況に影響を受けないという異端の方法が相対的に頭をもたげていたためではなかったか。

翻って、虚子のこの発言について改めて考えてみると、これを周到に計算されたものであるとか、本当に影響を与えなかったのだとかいうのは違うだろう。ここで再び、臼井の言葉を引いてみたい。「野ざらし紀行」に収められた「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」前後のくだりについて、桑原武夫が「芭蕉について」において加藤楸邨の説を批判しつつ「ここに人生などありはしない。一個の美文があるのみである」と述べたことに対して、次のように書いている。

 桑原氏が、ここに人生などありはしない、あるのは美文だけだというのも、言いすぎであろう。なるほど一種の美文にはちがいない。しかし、人生がないなどといえるはずがない。芭蕉なりの人生が吐露されているのだ。それ以上でもなければ、それ以下でもない。(略)こういう一種の美文によってしか、彼は自分の人生を表現するすべを知らなかったのである。(「歌人芭蕉の問題」『文学』一九四六・一二)

ここで臼井は、芭蕉は美文によって自らの人生を表現したのだと述べているが、そのような実践はまた、そのように表現された人生を引き受けるということ不即不離のものであったろう。そのように考えたとき、虚子が戦争の影響を受けなかったという発言そのものは信頼できても、虚子が戦争の影響を受けなかったということは容易に信頼できることではない。いうまでもなく、虚子は、俳句形式は戦争の影響を受けないものであるとする発言と一続きの思考を引き受けることで、やはり虚子なりの戦争を生きていたのである。その実践についての批判はいかにも容易であって、容易であるだけに虚子も動じることがなかったのではないか。

しかし僕は、だから虚子をもっと評価すべきなのだとか、新興俳句などを評価すべきなのだといいたいのではない。そうではなくて、俳句形式が、形式の記憶として「高浜虚子」を持っているということを僕たちが知っておくことが重要だと思う。換言すれば、俳句形式においては、かつてある作家が他ならぬ戦時下を生きるために、戦時下において影響を受けないというありかたを自覚的に選びとることがあったのだということを、まずは一切の批判をぬきにして僕たちは記憶しておくべきだと思うのである。僕たちが俳句形式で書くということは、この記憶とともにあり続けるということである。このことは今日においてますます重要になってきているように思う。



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